一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.10 September (1) ベンチ雑感

小路 武彦 (長崎大学医学部解剖学第三講座)

 私が日本細胞生物学会で最初に発表したのは,今から20年前の京都で開催された第32回大会であった。

 時の指導教官である寺山宏教授(本学会名誉会員)も今春,勲三等旭日中授賞を叙勲され,先日お祝いに参上した所である。当時私は,東京大学理学部大学院(動物学科)の若年初等兵で,日曜の夜等は一人実験室を清掃・モップ掛けして帰ったものである。今では幾人かの同窓生同様一つの教室を主宰するようになったが,分野は生理化学から分子生物学を経て形態学へと転身し,現在では組織細胞単位で遺伝子発現状態の調節機構へ洞察を行う分子組織細胞化学を標榜している。現在の生物学的対象は生殖細胞死の制御機構の解明とその意味論であるが,興味の根源は世代を越えた生命の若返り現象である。

 研究生活に於いても,世代の交代言い換えれば若い学徒の教育・育成は重要な任務であり,「百年の計を図るに,人を生うるに如くは無し」と十分に心得ている積もりであるが,最近余りにも目に余る諸君が横行するに至り,ここに一言愚痴を述べさせて頂きたい。

 実は苦手なのが,学生諸君(中年層でも?)に当たり前のあの「携帯電話」というものである。僕は基本的にネコミミ的素因も関係してか,長時間の電話は不得意であるが,特に最初のコール音にドキッとして緊張感が走り,「誰からか? 何ごとが起こったのか?」と一瞬にして白昼夢するのである。それが,今では至る所でピピピー,プププ-,ピポピポである。何故,他人の電話に不必要にドキッとさせられなくてはいけないのか? これが神聖視している実験中なり,議論中或いは講義中であったりすると,限りなく馬鹿にされているという印象を持つ。要はマナーの問題である。豊かな美意識の欠損であり非常識ではないかと思う。美意識を共有することが人間的社会秩序を守る上で最も重要なのに,自分勝手な価値観を振りかざすことによって個性的であり自由であると感じるとしたら末恐ろしい。

 日進月歩の生命科学分野では,他の研究者と調和することが必ずしも美徳とは言い難い側面がある。個性的研究が重要視され,break-throughが叫ばれる。独創的研究は個性と能力の発露である。しかし,実際には情報の大氾濫と研究資材の商品化により,誰でも短期間に先端分野に参入可能で,多くの研究でなされている先陣争いはそれ程個性的な戦いというものではなく,むしろ結果的には「百万人目の入場者」とか「ドリームジャンボで3億円獲得者」的勝利者であることも多いのではないか? 思っているほど女王バチではなく,偶然に風に乗って遠くまで飛んだ働きバチにすぎないのではないか? ついでに,polymerase chain reactionの発見でもいわれているが,「大発見は研究室からは生まれない」という衝撃的な言動も聴かれる。我々は成功者を目指すと言えども,この点に於いて,研究室で余りに個性的であり,我が儘であり,非常識である必要はないのである。

 周知の様に,昨今では学問領域の融合により従来なら忌み嫌い合って口もきかないであろう分野同士が同舟している。いわゆる常識とは今やアナクロニズムへの踏み絵である。常識の殻に風穴を開けるのが学問の進歩と思うが,しかし非常識が研究者の常識として何の抵抗もなく通用する(或いは通用させる)ことに一抹の危惧を感ずるのである。美意識のないところには,こだわりとか誇りとかという個人の内的束縛が形成されにくいため,紳士協定などという物には価値が生まれない。倫理上やってはいけない学問研究も,紳士協定によって制約されていることを忘れてはいけない。若い研究者の方々には,美意識に支えられた哲学のある高邁な戦いを繰広げて頂きたいと切望する。

 細胞生物学の根本規範は,全ての細胞は同一生命空間から生じているという仮説であり,人類皆兄弟へ通じる概念である。美意識を共有できる素地が無意識に提供されているように思える。「明日の研究者の頂点を目指し,美的研究生活をしましょう。」これが昨今の若手研究者気質に対する私の提案である。

 気がつくと,シラフで言ってはいけないような感想を述べてしまい,本人も反省している。でも本当に気になるのは,こんな問題に直に慣れて,問題と感じなくなる自分自身の執着心の衰えである点であることを申し添えたい。

 


(1999-09-01)

日本細胞生物学会賛助会員

バナー広告