毛利 秀雄東京大学名誉教授・基礎生物学研究所名誉教授
現在東京工業大学榮譽教授で基礎生物学研究所名誉教授の大隅良典さんが今年のノーベル生理学・医学賞を受賞することになりました。もと同僚の一人として大変うれしく思っています。しかも近年は滅多にない単独の、そして数少ない生物学者の受賞でした。
最初に知り合ったころ、私は東京大学教養学部の生物の助教授になりたてで、それがアメリカ留学でひげを生やした理由という童顔だった彼は同学部基礎科学科の第二期生の学生でした。基礎科学科はすでにあった文系の教養学科と対になる形で教養学部に作られた理系の学科で、数学から地学までの巾広い教育を行い、従来の縦割りの各学部では難しかった境界領域を開拓する人物の育成をめざしたパイオニアでした。新設学科の常として第五期生ぐらいまではきわめて優秀な学生が集まり、大隅さんもその一人でした。彼が入った研究室は私の部屋の近くの今堀和友教授のところで、先生は円偏向二色性など戦後の生化学のパイオニアの一人で、たしか大隅さんと同級の渡辺公綱さんなど多くの優れた研究者を育てています。夫人の萬里子さんも同じ研究室の後輩です。
まもなく今堀先生は本郷キャンパスの方に移られたりしたので、基礎科学科の上に作られた相関理化学課程の大学院時代、特にポスドクの頃の彼のことはあまりよく知りません。そのころ東大紛争があり大変な時代でした。一時京大の生物物理に内地留学したり、学位取得後は抗体の化学構造を決めて1972 年にノーベル生理学・医学賞を取ったロックフェラー大学のエーデルマンのところに留学したりしています。エーデルマンのところはすでに免疫から動物の受精などの研究にシフトしていました。この間あまり目ぼしい業績は上げていないようです。こうした彼を東京大学理学部植物学教室の安楽泰弘さんが助手として呼び戻してくれます。安楽さんは大腸菌の膜輸送の研究における世界的な権威ですが、彼から何をやってもよいと勧められ酵母の液胞の研究に向かったとのことです。論文はあまり書かなかったと聞いています。
1988 年、二年前から講師になっていた43歳の大隅さんを東京大学教養学部の生物学教室が一般教養の助教授として迎えることになり、彼は古巣の駒場に戻ります。ここは私などの一代前の方々のおかげで、助手でもそれぞれ自分の好きな研究が勝手にできる場所でした。彼にとって初めての自前の研究室でしたが、顕微鏡と培養器、それに滅菌器だけの出発です。しかしまさにその年に、彼は顕微鏡下で酵母の液胞における生のオートファジー現象を観察するという快挙を成し遂げることになります。その頃私は学部長でいそがしく、ことの重要性にはまったく気づいていませんでした。世界中がそうだったと言えましょう。論文がなかなか出ないので、教授昇進のこともあり尋ねたこともありましたが、彼は「大丈夫です」と落ち着いて答えていました。そういえば彼が動じるのを見たことはありません。実は論文が受理されるまでに4年もかかることになるのですが、その間に電顕での観察や関連遺伝子の特定などを行っていたのでした。彼の手引きで当時の大蔵省の醸造試験場に教室のスタッフ皆で見学(飲み)に行ったのもよい思い出です。
少し時がたち、1995年に私は縁あって岡崎市の基礎生物学研究所(基生研)に所長として赴任しました。ご存知かと思いますが基生研は生物学者たちの要望により、化学の分子科学研究所、医学の生理学研究所とともに同地に1977年に設立された全国共同利用研究所の一つで、国内では国公私立すべての大学および海外の研究者たちと共同研究をおこなってきた、わが国を代表する研究所です。名前の通り生命現象を深く掘り下げていくことを目的としています。当時はいろいろな事情から新設も含め教授の空ポストがいくつもあり、できるだけ速やかにそれらを埋めるべく努力しましたが、そのうちの一つが大隅さんの細胞生物学研究系のポストでした。人事選考委員会の方々の慧眼のおかげで、翌年駒場でまだ助教授にとどまっていた彼を昇任させることができました。彼51 歳の時です。赴任してきた彼に私は助教授には動物系の人を採るように頼みました。先見の明があったわけではなく、所内の動物系、植物系のバランスを考えての提案です。すでに大きな構想を持っていたと思われる大隅さんはこれを了承し、関西医大から本学会会長の吉森保さんを引張りました。後に東京医科歯科大の水島昇さん(現東大教授)も助手として加わり、オートファジーの研究は全生物の問題へと拡張していきます。私にとっては怪我の功名のようなものです。早くも1997年にはオートファジーに関する国際シンポジウムが世界で初めて基生研で開かれています。実はこの種の国際シンポジウムは基生研設立以来国内外の権威を集めて行われており、わが国の生物学の発展に大いに寄与してきました。彼の場合はむしろ海外の研究者たちに大きなインパクトを与えることになったと言えましょう。
ご存知のようにオートファジーの概念は1974年のノーベル生理学・医学賞受賞者のド・デューヴによって提唱されていたものですが、大隅さんはその実態を光学顕微鏡下にとらえ、さらに関連する遺伝子群のほとんどを分子生物学的手法で一人(一派)で決めて、この現象が単にオルガネラやタンパク質の分解ばかりでなく、生じたアミノ酸などのリサイクルという生物にとって欠くことのできない重要な役割を果たしていることを明らかにしました。それによって多くの病気の治療に新しい手法がもたらされる可能性が出てきました。この業績はちょうど動物学者だったロシアのメチニコフが、ヒトデの遊走細胞が異物を食べるようすを顕微鏡で観察し、後に白血球にも同じ食細胞作用があることから免疫のしくみにたどりついて、1908年のノーベル生理学・医学賞をエールリッヒとともに受賞したのに比肩されましょう。
大隅さんは大器晩成を絵に描いたような人です。現在の東工大に移ってからもそのようですが自身はまさに酵母一筋、自分の面白いと思った現象をとことん追求しています。彼は受賞後、自分がたどってきた基礎研究の重要性にたびたび言及していますが、じっさい法人化後政府からの交付金が年々1パーセントずつ減らされ、若い研究者にとっては任期付きのポストばかりで落ち着いて研究できない現状では、第二の大隅の出現は難しいのではないでしょうか。当時、一般教育をも担当する東大の教養学部でも、新任の助教授には研究に必要な最低限の備品や研究費は与えられていましたし、基生研では新任教授には助教授・助手・技官が用意され、バブル崩壊後ではありましたが、基生研はCOE(Center of Excellence)の一つに選ばれており、基礎研究にも多額の研究費が配分されていました(現状は違うようです)。
大隅さんはまじめな人ですが、人付き合いもよく気遣いの人でもあります。秀才ではありますが天才肌ではない。物事をじっくり考えるが、おおらかで大まかなところもあります。きわめてふつうの人(研究者)です。そういう人が40 歳を過ぎて流行りのものではないテーマに興味を抱き、それを着実に追い詰めていって、ついにノーベル賞に到達したことには、賞賛と同時に大きな喜びを禁じえません。九州男児のせいか酒も大好きで、このところは立て続けに大きな賞の受賞がつづいてとても忙しく健康を心配する向きもありましたが、無事今日を迎えたことはめでたいことです。すぐには役に立たない基礎研究にはなかなか厳しいわが国の現状ですが、彼の快挙に触発されて、より多くの若い人たちが生命現象の謎をじっくり解明することを志すようになるとよいと心から祈っています。
大隅さんのノーベル賞は彼の1990年代の仕事に対して与えられています。この期間はまさに東大教養学部での仕事が論文になり、基生研でそれが大いに発展した期間に当たります。基礎科学科、基礎生物学研究所の設立理念が今回の快挙でまさに花開いたとも言えましょう。両者にとってもきわめて誇らしいことです。いずれの場所でも偶然それに立ち会うことになった私はまことに幸運でありました。恩師の今堀先生が彼の受賞決定に先立つことわずか五か月前に亡くなられたことは返す返すも残念なことでした。