末次 志郎奈良先端科学技術大学院大学
竹縄忠臣先生が、2025年3月30日に80歳でご逝去されました。
竹縄先生は1974年に博士号を取得され、1992年に東京大学医科学研究所の教授に就任されました。2007年の東京大学定年退職後は、神戸大学にてしばらくの間、研究室を主宰されていました。
細胞生物学会では、2008年の大会長などを務められました。
本追悼文を執筆させていただいております私・末次は、1997年に竹縄研究室に修士課程の大学院生として加わり、博士課程の指導もいただきました。続いて助手に採用していただき、ほぼ定年退官まで務めました。竹縄先生と東京大学医科学研究所での10年間をご一緒した者として、心からの追悼の意を表す次第です。
思い返せば、私が生まれた1974年には、すでに竹縄先生は博士号を取得されていました。私は団塊ジュニア世代で、研究室に加わった1997年には、ちょうど大学院重点化や「ポスドク1万人計画」が推進されていた時期でした。日本が欧米の基礎研究に“ただ乗りしている”と批判をうけ、基礎研究費が大幅に増額され、大学院には多くの学生が集い、一方で大学職員は国家公務員の身分を維持していることもあり安定した職業の代名詞のような存在で、科学技術立国のかけ声のもと、研究に活気が満ちていました。
竹縄先生は、すでにホスホイノシチドのリパーゼ関連タンパク質の研究で広く知られており、当時助教授だった深見希代子先生(現・東京薬科大学名誉教授)との研究を通じて、その重要性、細胞内シグナル伝達やラメリポディアなどの細胞構造形成に関与することを示されました。ホスホイノシチドは、代表的には、がん抑制遺伝子PTENの変異で変化することが明らかなシグナル伝達物質であり、それらのさきがけとなる重要な仕事と考えられます。
また、ホスホリパーゼと結合するタンパク質として、ポリプロリンおよびリン酸化チロシンに結合するSrc-Homologyドメインのみからなるタンパク質を、松岡耕二先生(元・千葉科学大学教授)らと同定されました。このタンパク質は現在Grb2として知られていますが、先生は“Ash”(Abundant Src Homology)と命名されました。その当時のタンパク質の概念は、何らかの基質に変化を加える酵素であるというものでしたが、その酵素活性がないタンパク質が分子複合体形成に関与するというアダプタータンパク質の概念の確立に貢献されました。
竹縄先生の業績の中で最も引用数が多いものは、N-WASPやWAVEなどアクチン細胞骨格の制御に関するタンパク質の同定に関するものです。Ashタンパク質を用いたアフィニティカラムにより臓器抽出液から結合タンパク質を精製し、ペプチド配列とcDNAライブラリーを組み合わせて遺伝子を同定されました。当時は機能が未知であり、ホモロジー検索によってWASPとの関連から機能を推定されたと説明されていたことを記憶しています。これは、現在の質量分析ベースの方法に先駆けるアプローチでした。続いて、N-WASPのホモロジー検索からWAVEを同定されました。これらのタンパク質は、Alan Hall教授らによって同定された低分子量Gタンパク質(Cdc42やRac)の下流で働き、フィロポディアやラメリポディアの形成を誘導します。特にN-WASPでは、その同定や自己抑制構造がCdc42の結合により解除される機構を、三木裕明先生(現・京都大学教授)らとともに解明されました。
さらに、これらの下流にあるArp2/3複合体は、枝分かれしたアクチンフィラメントの形成を担っており、枝を作ることでアクチンの伸長端を倍加、細胞構造の爆発的な拡張を可能にします。Arp2/3の研究では、Thomas Pollard教授(米国)、Laura Machesky教授およびRobert Insall教授(英国)らが先行していました。
一方、研究室に加わったばかりの私は、WASPの下流でアクチンを制御するタンパク質は、プロフィリンというアクチン単量体結合タンパク質ではないかという仕事をさせていただきました。プロフィリンは、Arp2/3複合体が知られる以前は、アクチン重合を促進できる可能性があるほぼ唯一のタンパク質でした。ポリプロリン配列にプロフィリンが結合できることから、WASPやWAVEに存在するポリプロリン配列に結合することを示しました。アクチン系を動かすタンパク質mDiaやVASPなどにもポリプリリン配列は普遍的に存在し、アクチンを供給することでアクチン重合を促進するとわかりました。しかし、枝分かれしたアクチンを説明することはできません。プロフィリンとN-WASPの論文が出た直後に、Arp2/3複合体が試験管内でWASPやWAVEに依存してアクチン重合を誘導するとの論文が出たのでした。
このとき、竹縄先生はこの論文の重要性をすぐに見抜き、竹縄先生はご自身でArp2/3複合体を精製されました。私は経験が浅く、その重要性を理解できていませんでしたが、先生は、Arp2/3複合体とWASPやWAVEの関係を示した論文で示された実験系は、「これは押さえておくべきだ」とおっしゃり、私には、当該論文に記載されていた試験管内でアクチン重合を調べる系を導入するようご指示くださいました。私は、他の研究室員と苦労の末、ウサギの筋肉からアセトンパウダーというアクチンの抽出物を作り、アクチンを精製し、ピレンで蛍光標識することで、重合を定量的に測定できる系を導入確立しました。この実験系を用いて、WASPやWAVEの制御機構の研究が進展しました。このとき、重要な実験系は必ず取り入れなければならないということを教えられたと思います。
しかし、アクチン研究の伝統がある研究者たちに比べ、我々の論文はなかなか受け入れられませんでした。実際、アクチン重合の正確な測定にはアクチンのゲル濾過などの手順が不可欠であるのですが、このことは、文献には明確に書かれていないことも多く、実験結果の信頼性を認めてもらうためには、これらの研究者との交流が必要でした。なかでも、アクチン重合が駆動力を発揮することを証明したMarie-France Carlier教授(フランス)を招聘し、議論を重ねたことで、私たちの研究も次第に国際的に認知されるようになりました。こうした交流から、世界の第一線の研究者との対話の重要性を強く実感しました。これも教えていただいたことの一つです。
研究室では、遺伝子をノックアウトすることができるようになり、WASPやWAVEのノックアウトやノックダウンやそれらに由来する細胞の表現系を見ると、栗栖修作先生(現・徳島大学)、山口英樹先生(現・佐々木研究所)、山崎大輔先生らによってWAVEがんの浸潤転移のための細胞運動に関与すること、血管の形成に関与することなどがあきらかになりました。一方で、この頃、電子顕微鏡技術が進歩して、WASPやWAVEの作用によって形成される枝分かれしたアクチン骨格は細胞内のあちこちに見られ、WASPやWAVEだけではその多様性を説明できないことがわかってきました。また、一方で、ノックアウト研究から、とくにWASPはラメリポディアやフィロポディアなどの突出膜構造だけはなく、エンドサイトーシス小胞などの形成にも関与していることが明らかになっていきました。つまりWASPやWAVEだけではその多様な構造を説明できません。
WASPやWAVEの研究を進める一方で、脂質に関する研究も継続されており、及川司先生(現・北海道大学)による、WAVEが直接ホスホイノシチドに結合することの研究、中村由和先生(現・東京理科大学教授)のPLC研究や、伊藤俊樹先生(現・神戸大学教授)によるENTHドメインが脂質膜に挿入されて膜形状を変える機構の研究などが進展しました。これら脂質研究とWASP/WAVE研究が融合することで、膜形態形成の多様性に関する新たな理解が得られました。
WASP/WAVEのタンパク質間相互作用に着目され、酵母ツーハイブリッド法により、細胞膜の形状を規定するBARドメインタンパク質が結合因子として再発見されました。BARドメインは人で約70種類が知られ、英国のHarvey McMahon教授によってその立体構造と膜の曲率との関連が先に示されましたが、私たちはBARドメインに「凸型 (I-BAR)」と「凹型 (BARおよびF-BAR)」があり、それぞれ異なる膜曲率に対応し、オリゴマー形成を通じて脂質膜と結合することで、細胞の持つ多様な膜構造をつくりわけることを明らかにしました。この研究では、大学院生であった辻田和也先生(現・神戸大学准教授)が重要な役割を果たしました。また膜の形状とタンパク質の形状の関係の発見にとりわけ重要であったことは、横山茂之先生(理化学研究所)との共同によるタンパク質立体構造解析でした。F-BARの発見は、Yale大学のPietro De Camilli教授の下に留学された伊藤俊樹先生らによっても報告されており、同じ指導を受けた研究者が類似のテーマにたどり着いたことは興味深い現象でした。
このように、竹縄先生の研究は、分子間相互作用を軸に、これまで知られていなかった機能をもつ遺伝子を次々に同定していった点に特徴があります。先生は常に当時の最新技術を柔軟に取り入れており、私が修士課程で研究室に加わった頃はペプチドシークエンスが主流でしたが、その後10年間で、ゲノム解析、質量分析、RNA干渉、ノックアウト技術などが次々と導入されました。これらの新技術を用いて、未知だった遺伝子機能を、生化学、細胞生物学、立体構造解析など多角的な手法で明らかにしていったことが、竹縄先生の研究の大きな特徴だと感じています。
竹縄先生は、日頃から研究室内をよく巡回され、教室員と気さくに会話を交わされる先生でした。そうした日常の中から、さまざまなアイデアが生まれ、独創的な研究へとつながっていたのだと思います。先生はよく、「何か面白いことはないか」とお尋ねになり、その流れで最近の実験結果や興味深い論文について気軽に議論を重ねたことを、今でもよく覚えています。
先生がしばしば語られていたのは、第二次世界大戦後の何もない時代に過ごしたご自身の少年期のことや、アメリカ留学時代には、なかなか相手にされなかった経験でした。そんな中で、町中に少しずつ日本車が見られるようになったことで励まされたというエピソードからも、先生が「何もないところから始めること」の重要性を深く信じておられたことがうかがえます。
また先生は、「一流誌に載っている研究には、すでにピークが過ぎているものも多い。そうした話題に飛びつけば、良い雑誌には載るかもしれないが、超一流にはなれない」と、よく語られていました。「誰も注目していないテーマに対して論理を組み立て、重要性を実証し、それをもって一流誌に載せていくことこそが大事である」と言われていました。このことは「2流の研究の勧め」というタイトルで、東京大学の学内広報(No 1290)にも寄稿されています。
私は、竹縄先生の研究室を離れたのち、留学を経ずに自ら研究室を主宰する立場となりました。そのため、先生は私にとって、研究者としての在り方を学ぶ上で、ほとんど唯一の師であり続けてくださいました。しかし、先生のなされた仕事の深さと先見性を思うと、それを超えるような研究に辿りつくことの難しさを、日々痛感しています。かつて先生が「負ける気はしない」とおっしゃったことがあります。おそらく、研究者にはそれぞれ言葉では伝えきれない哲学があり、それを背にして静かに闘い続けるものなのだと、今になって理解するようになりました。
先生の晩年、日本の科学研究の輝きが以前ほど見られなくなったことについて、私たちの世代の責任であると厳しいお言葉をいただいたことがありました。その言葉を今あらためて思い出し、次なる輝きを見出すべく努力を重ねていきたいと強く感じています。
改めてお礼申し上げるとともに、竹縄先生のご冥福をお祈りします。
神戸大学での竹縄先生
