中野 明彦東京大学/理化学研究所
私が月田さんと最初に知り合ったのはいつのことだったのか,あまりに前のことであり明確な記憶は残っていない。しばらくして私よりも一つ年下であることを知り,あの貫録は何!?と愕然としたことはよく覚えている。ずっと学会関係のつき合いが続いていたが,忘れられないのは約4年前の2001年11月,フランスのストラスブールでばったりと出会ったときのこと。私がルイ・パスツール大学の客員として招聘され,しばらく滞在していたときに,たまたま仏独共催のCell Biology Congressというものがストラスブールで開かれ,せっかくだからと冷やかしに行ったところ,月田さんが何やら賞をもらって特別講演に呼ばれていたのだった。思わぬ出会いに,何はともあれ飲みに行こう!と2人でL’Alsace a Tableというアルザス料理の店に行き,しこたまワインを飲んだ。ちょうどその折り,日本細胞生物学会では廣川会長が任期満了で退任の予定であり,後任の会長選挙が行われている最中であった。運営委員による予備選挙の結果,永田さんが1位,月田さんが2位,私が3位という順位でノミネートされていて,永田さんが選出されることはほぼ確実とは思いつつ,ここはひとつ2位3位連合を作って永田さんの当選を絶対確実にしよう,と約束し,いろんなことを語りながら数時間実に楽しく盛り上がった。月田さんとはそれから急速に親しくなった気がする。そう,本来ならば,今回の会長選では月田さんと私が争う(譲り合う?)はずだったのだ。あのときのアルザス料理は,月田さんが賞金でおごってくれた。次はぼくがおごるねと言った約束も,帰ってから2人の落選祝いをやろうという約束も果たさずしまいになってしまったことが悔やまれる。
月田さんがちょっと学会から距離を置いたように感じられた時期があり,それがまたたまたま学会の存在価値が議論されるようになった時期とも重なって,月田さんはとっても影響力の大きい人なんだから,また出てきていろいろ意見を言ってよ,と何度か言ったことがある。月田さんは,細胞生物学会が一生懸命大きくなろうと背伸びしていることに批判的で,生化学会や分子生物学会と同じような学会が増えたって意味がないというのが持論だった。高井先生がお世話された 2004年の大阪大会から大きく運営方式が変わったが,そのときのいわゆる高井委員会以来,細胞生物学会の新しい方向についての議論を引っ張ったのは,ほかの誰でもない月田さんであった。
いつか月田さんが,「細胞生物学会がこのままではいけないということは,ぼくも中野さんも共通認識として持っていると思う。だけど違うのは,中野さんが一生懸命何とかしようと思うのに対し,ぼくはよくならなかったらつぶれてもしょうがないと思うところかな」といみじくも言ったことがある。みんなが投稿したいと思わないCSFであれば,廃刊した方がいい,というのも彼の強い意見だった。「CSFを廃刊できるかどうかが,細胞生物学会に活力が残っているかどうかの試金石だ」という過激な意見には,私もずいぶん揺れ動いたものである。その後の紆余曲折は会員の皆さんもご存じの通りである。大阪大会は大成功し,CSFも完全電子化という第3の道を選んで,生き延びるというより大きく発展する展望を持つに至った。
月田さん,CSFの続投についてはまだいろいろ言いたいことがありそうだったが,大阪大会の成功はとても喜んで,次のようなメールを私にくれている。「大会は僕の予想を超えたものでありました。永田・中野執行部と高井会頭という,なかなか馴染まないような個性がうまく混ざり合うと,おもしろいものができるのだという典型的な例のような気がしました。若い人の反応を見ていると,再来年の京都での会は頑張ってみようという気に充分なりました。今後ともよろしくご指導下さい。」
この再来年というのは今年のこと。京都の会とは,IUBMBにかかわらず細胞生物学会として独自に持とうと当初決めていた大会のことである。月田さんが大会委員長を引き受けてくれ,月田色豊かなものになるはずであった。しかし,しばらくして月田さんから,いずれも場所は京都で,しかも時期的にもあまりにも近いので,やはりこの年は中止にした方がいいのではないかという申し出があった。運営委員会の議論で結局IUBMBに協賛するということに落ち着いたが,そのころ月田さんは自分の病気のことを知ったはずで,もしかするとあれは本当は不本意な撤回だったのかもしれないなと思っている。
月田さんとは,この2年ほど共同研究を進めていた。クローディンと弱いけれども相同性を持つ遺伝子が酵母にあるみたいだというので,その解析をうちで始めることにしたのである。破壊しても明確な表現型は示さないのだが,局在などおもしろい点が多く,何とか論文にまとめられるのではないかと思っている。昨年,大宮の大会では連名のポスターを出すこともできた。この研究の打合せでいろいろメールのやり取りをしたのだが,実は私も彼の病気のことをある時点で知ってしまっており,知っていることを伝えて励ますべきなのかとてもとても悩んだ。しかし,文面をみる限り月田さんのメールはそれまでと何ら変わることのない一流のサイエンティストとしてのレスポンスであり,これはこちらも最後まで知らぬ顔をしてサイエンスのやり取りだけをしようと決めてしまった。それがきっと月田さんが望むことだろうと思ったのだが,その方がつらい言葉をやり取りせずにすむのだから,私は現実から逃げてしまっただけなのかもしれない。そう思うと自分の決心が悔やまれてならない。月田さんは決して現実から逃げられなかったのだから。ほかの方の追悼文を読み,同じような気持ちを持ったのが自分だけではなかったことを知ったが,胸の痛みは消えることはないだろう。せめてもの償いとして,この仕事をCSFに投稿できたらいいなと思っている。月田さんが潰したかったCSFだけど,ここまでいいジャーナルになったんだから許してよ,と言いつつ。
合掌。