矢原 一郎(株)医学生物学研究所
私が5年間の米国滞在を終えて帰国し、都臨床研に小さなラボを持ったのは、1976年の夏のことでした。そして、その年の内に、何度も岡田善雄先生と、学会のシンポジウムや科研費の班会議で顔を合わせ、議論することとなりました。岡田先生は既にその20年近く前にHVJによる細胞融合を発見され、それにかかわる一連の研究を精力的に進めておられました。なにが岡田先生との議論の焦点になったかというと、膜の流動性とその制御についてでした。Frye & Edidin (1970)は、二つの細胞を融合させると、膜面の抗原が温度依存的に混じりあうことを見出し、細胞膜の抗原が二次元の液面を拡散によって運動することを示唆しました。一方、リン脂質プローブを使ったESR測定で、膜脂質が液体に近い回転拡散をしていることも示されており、これらの結果に基づいて、 Singer & Nicolson の「膜の流動モザイク・モデル」が提唱されました(1971)。これらの考えに対して、岡田先生はウィルス膜抗原は膜の裏打ち構造と相互作用しており、膜抗原が混じりあうのは、裏打ち構造との結合が切断された場合であろうと考えておられたのです。一方、私は、Edelmanのラボで、リンパ球膜の糖タンパク質や膜結合性Igが、抗体によって架橋されると、拡散によるpatch形成、次いでアクチン細胞骨格の作用を受けて、cap形成することを見出していました(Raffらの方が少し早く論文を出しましたが)。この研究の延長で、私は膜タンパク質の運動が微小管による負の制御を受けていることを見出しました (1972)。つまり、膜タンパク質と細胞骨格による正と負の相互作用を発見したので、当時の学会では議論の的となりました。当然、岡田先生はわが意を得たりと考えられたのか、多くの議論をしていただきました。当時の私は、生意気盛りだったので、かなり激しい議論になったことも少なくありません。
こうした中で、岡田先生は何度か、「矢原君、重要なのは、なにをするかよりも、なにをしないかをきちんと決めることだよ」と言われました。岡田先生は、 HVJによる細胞融合を発見しかかっているとき、ウィルス感染が癌に干渉し、その増殖を阻害することにも関心を持っておられたとのことです。私だったら、迷わず両方のテーマを研究するところを、岡田先生は、ウィルス感染と癌の相互干渉のテーマを捨て、HVJによる細胞融合一本にしぼって研究されました。世界的な偉業をなしとげるには、岡田先生のように考え、集中する必要があるのかもしれません。岡田先生が多大の熱意をもって創立された、大阪大学細胞工学センターを研究の出発点とした、岸本忠三先生がIL-6一筋で、分子機構の解明から治療抗体の開発までされたのは、岡田先生の意を継いでいるのかもしれません。
岡田先生が後継者としてだれもが認めていた、最愛の弟子の内田驍さんは、惜しくも働き盛りに亡くなられましたが、私と同じ歳で、大変親しくしておりました。このことも、岡田先生と私のつながりの重要な環でした。現在の細胞生物学会では、内田さんの弟子たち、つまり岡田先生には孫弟子に相当する方たちが、おおぜい活躍されています。孫弟子の研究者のそれぞれが、きわめてユニークな発想に基づいて研究を展開されているのをみるにつけ、岡田先生の思想が生き続けていることがわかります。日本の細胞生物学が世界の中で、独特の輝きを示してきた(示している)のは、岡田先生の思想の賜物だと思います。また、岡田先生は、日本細胞生物学会をなによりも大切にしておられました。この点だけは、私は岡田先生から学んで、身につけることができたと思っております(サイエンスでは、学びそこないましたが)。ご冥福を心より祈ります。