金 在萬
先生に初めてお目にかかったのは1970年の8月、暑い夏の太陽が輝く午後でした。その年の春に大学院の博士過程を終え、それまで身を置いていた薬学部のすべて応用応用と言う雰囲気に飽き飽きし、もう少し基礎の勉強をしたいとの思いから京大ウイルス研の野島徳吉先生の紹介状を頂き、大阪大学微生物病研究所の深井研を訪ね、応対して下さったのが岡田助教授(当時)でした。色々話を聞かれた後、席を立つ際、先生から“おい君、僕とやらないか”とお声をかけられたのがすべてでした。運命的な邂逅、それまで私は細胞融合の事は全く知りませんでした。
微研・深井研の奥の狭い助教授室、実験台が一つ、クリーンベンチとCO2インキュベータ、遠心機が一台、そしてスタッフは技官の女性が一人。そこに私が加わる事になりましたが、相前後して京大から渡辺さん、一年後に山泉さん(熊本大(医)教授でしたが惜しくも昨年亡くなられました)が入室して来ました。
私が入室した頃は日本でも漸く細胞培養法が確立(これには東大医科研の勝田先生の地道なご努力が大きかったと思います)されて間もない頃で、日本細胞生物学会や組織培養学会等では培養細胞を実験系にした研究が多かった様に記憶して居ります。そんな時代の流れの中で、私は先生から細胞生物学の手ほどきを受けたのですが、先生が強調して居られた事は培養細胞を実験系として用いた場合の限界でした。培養細胞で得られた結果を一般生体反応として演繹する事の危うさを指摘され、培養細胞で出来る事と出来ない事の限界を意識し、峻別しなければならないと言う事でした。この事は、その後の私の研究生活の中でも新しい実験系の構築等でいつも肝に銘じた事でした。
当時(70年代初め)先生は試行錯誤の末、試験管内で細胞融合を再現出来る条件を確立され(細胞融合現象は当初マウスの腹腔内で起こる現象として発見され、そのin vitro系の確立には相当苦労されたと聞いて居ります)、この系を使って細胞融合により形成された雑種細胞の染色体の解析、即ち今日で言う体細胞遺伝学の研究をして居られました。私が入室した頃、先生は細胞融合機構の解析の一環として、その現場である生体膜の特性に注目して居られましたし、一方で細胞融合を惹起するHVJ (Sendai virus)自体にも強い関心を示して居られました。しかしその頃、先生は未だ助教授で、研究費は言うまでもなく、設備、スペース、スタッフを含めてどれ一つをとっても満足出来るものはなく、研究は遅々として進まぬ中、細胞融合に関する研究成果が英国のHarrisのグループを中心に世界中で次々とあがっている時期でした。また、一方、国内では未だ細胞融合は注目されないばかりか、細胞融合による多核化は解析をより困難にする複雑系にするものとして冷ややかに見る研究者が多かった様で、文字通り孤軍奮闘されて居られ、精神的にも最も厳しい時代だったと思われます。
1972年秋、先生が教授になられて本格的に研究が始動する様になりました。気鋭の内田驍助教授を迎え、次第に研究が軌道に乗ると共に多くの院生達が研究室に集まって来ました。狭いながらも微研の第三会議室を改装した実験室は熱気に溢れていました。この時代の最も大きな成果の一つは、リポソーム法の開発とそれを用いた細胞機能の解析でしょう。高分子の活性物質を生きた細胞内に導入出来れば、それによって細胞機能の理解が大きく進展するはず、との発想のもと、細胞内への高分子物質導入の一法としてリポソーム法が考えられたのです。導入すべき物質を包み込んだリン脂質のリポソームに細胞融合活性を有する HVJのタンパク質を組み込み、膜融合活性を持たせた人工リポソームと細胞膜の融合による結果、高分子物質を生きた細胞内に導入するものでした。リポソームを内田助教授が作製し、これにHVJのタンパク質を組み込み、それを私が電子顕微鏡で確認した後、生きた細胞と融合させる困難な作業が連日続きました。この方法でジフテリア毒素をそのレセプターのないマウスの細胞に導入し、毒性を確かめた論文をJ. Cell Biol.に発表したのが1979年、これが世界中でリポソーム法が世に出た最初でした。当時は未だ遺伝子のクローニング法は確立されて居りませんでしたが、後にこのリポソーム法は細胞内への遺伝子導入法の有力な一手段にもなりました。更に遺伝子治療の有力な方法としても今日臨床応用段階にまで発展し、大阪大学医学部に日本で初めての遺伝子治療を専門とする研究室が開設されるまでになりました。その初代主任は岡田先生の高弟、金田教授です。また近年、医薬品の体内送達(いわゆるDDS)の有力手段としても注目されて居ります。皮肉な事に先生の細胞融合に関するご業績は米(欧)で先に注目され、その後漸く日本で脚光を浴びたのを一つの契機に大阪大学に細胞工学センターが設置されると共に、先生が初代センター長に就任され、その後のご活躍は周知の通りで改めて書き記すまでもないでしょう。今振り返ってみますと、細胞工学センター設立前後が先生にとって最も充実した時期ではなかったかと思われます。今現在各方面の第一線で活躍中の、岡田研の門下生の多くはこの時期の院生達でした。
先生は海外留学された経験がございません。これは当時としては極めて稀な事でした。本質的には今日でも変わりない事と思いますが、先生の青年期の 50?60年代、若い研究者が米(欧)へ留学する事は一種の、研究者として認知されるための、経なければならぬ通過儀礼の様な感がありました。その様な流れの中で先生は“留学する必要性を感じなかった”そうで、あえて海外留学をされなかった様です。恐らくご自分が始められた“細胞融合学”でありましたから、向こうで学ぶ必要性を感じられなかったのでしょう。それに、先生は一貫して米(欧)追従の周囲の空気に違和感を持って居られたと言う事も一因だったかも知れません。近代科学が西欧で始まり、先生の若い頃は未だ敗戦の復興途上の、日本の科学が遅れをとって居た時期である事を考えますと、多くの研究者の米(欧)への留学熱は当然の成り行きだったと思われます。しかし、留学から帰国後、向こうでの最新の研究が、学会等の特別講演等で脚光を浴びた後いつの間にか色褪せて行く、そんな研究を先生は本当に嫌って居られました。“あんな研究は袋小路や”とか“あれでは行き詰まる”、“研究はドロ臭く、末広がりに展開されるものでなければ”とよく言われた事を覚えて居ります。先生は当時、既に何もかも見通して居られた様な、揺るぎないものを持って居られた気が致します。昔も今も、よく研究は独創的でなければ云々とヒトはよく口にしますが、それがどれだけ容易でない事か、時代の流行に流されない仕事を続ける事が如何に困難で精神的に孤独でしんどい事か、先生は身をもって示された気が致します。先生はどんなに著名な研究者の仕事であっても流行に沿った亜流は評価されませんでした。そんな訳で、研究費に大変苦労なさった助教授時代に、ある著名な先生の研究班に誘われてもお断りした事がありました。逆にどんなに無名の研究者であっても独自の仕事を持って居る研究者には注目し評価されました。それはオリジナリティを大変尊重される所にも現れて居りました。権威を嫌い、出身大学、学部、国籍を一切問わぬ先生の一貫した姿勢でした。
ほとんどの研究者が米(欧)へ留学する当時、逆に岡田研は、多くの米欧の研究者が留学に来る、日本では数少ない研究室の一つでした。後にノーベル賞を受賞されたMilstein博士もその一人でした。岡田先生は、海外からやって来た研究者達の殆どが当然の様に英語を話し、それが通じるのをごく当たり前の様に思う態度に少なからず違和感を覚えて居られる様でした。日本に来るなら日本語の挨拶のカタコト位は覚えて来るべきではないだろうか、と言う意味の事をおっしゃった事がありました。こう書けば先生が多少とも国粋主義的傾向の方だったのでは、と誤解される事を恐れますが、決してそう言う事ではなく、無意識的あるいは潜在的にしろ決して対等とは思われない事への不満と言いましょうか、“人間の誠意”を重視された所以かと思われます。潜在的にしろ自分たちの言葉が世界中で通用するのが当然と言う感覚、カタコトでも訪れる国の言葉で挨拶をしようと言う誠意のなさを嘆かれた事を表したものと理解すべきではと思います。誠意と言えば、先生が招かれて初めて訪韓され、ご講演後のパーティーでの挨拶を全く知らぬ韓国語で準備された時、韓国語の発音をカナで原稿に表記するのをお手伝いした事を思い出します。 先生は東洋的伝統、人間関係を重んじ大変義理堅く律儀な方でした。特に困難の多かった時代に世話になった方々への配慮は後々まで決して忘れる事はありませんでした。細胞融合が国内では全く理解されなかった初期、唯一、加納晴三郎先生(微研、国立大阪衛生試験所)には励まして頂いたと後々まで感謝して居られましたし、アルバイトで器具洗いに来ていた高校生には後々まで困った事や進路指導の相談にのってあげる等、人間の絆をいつまでも大事にされて居られました。門下生の就職先が決まると“これでアイツも何とか飯が食える様になって、安心して研究が続けられる”と喜んで居られるのに接したのも一度や二度ではありませんでした。いつまでも堅持して居られたのは人間的優しさに基づく弱者の立場からの視点でした。
既に触れました様に、ノーベル賞を受賞されたMilstein博士は、二度岡田研に来られました。細胞融合の基礎と応用の開拓者と言う訳で、先生と共同でノーベル賞を受賞されるのではと1984年10月初旬は多くの報道関係者が待ち構える程でしたが、結果はMilstein博士とその若い弟子の受賞となりました。かねて先生のご業績を高く評価されて居た山村雄一先生(元大阪大総長)は返すがえす残念がって居られましたが、当の岡田先生は極めて冷静で、残念がる様子を全く見せられる事もなく、“世界中には僕より偉い研究者はいくらでも居るよ”と言われた事が印象的で未だに忘れる事が出来ません。
80年代以後分子生物学が絶頂期の頃、“分子で生命を語る”と言う研究者が多く居ましたが、先生は分子生物学で生物、特に多細胞生物を“語る”事には懐疑的でした。それより細胞のsocial behaviorに早くから注目して居られました。また細胞融合により初めて可能になった体細胞遺伝学に注目されて居られました。そんな事もあってか、 City of Hope Beckman研究所の、故大野乾先生のご研究を評価され、大変関心を示して居られました。それまで大野先生と直接会われた機会はなかった様ですが、 1994年、大野先生が千里ライフサイエンス振興財団の招きで講演された事がありました。大野先生の「なぜ発生は進化を繰り返すのか」のご講演の実験系が古生物の魚でしたが、その際、なぜ魚を研究対象に選ばれたのか、のご質問にただ単に“魚が好きだったから”と衒いのない単純明瞭なお答えでした。そのお人柄も岡田先生に通じるものがあると印象深いものを感じました。先生は正に衒いのない方でした。
今は亡き先生のお人柄を偲ぶ時、分野は全く異なりますが私の脳裏に浮かぶ先生が居られます。それは昨年亡くなられた経済学者の森嶋通夫先生です。ナイーブで、昨今の劣化していく日本社会を見る視点は岡田先生のそれに相通じるものがありました。お二人とも西欧で始まった学問に身を置かれながらもその流れに呑まれる事なく、東洋的思想を背景に独自の立場を堅持されて居られたと私には思えるのです。
大阪大学の定年退官を数年残された頃から次期総長の候補として口上に登る様になった頃、“僕は(総長に)向かない、嫌だ”と漏らされ、実際に周囲にはその様に働きかけて居られた様でした。ご自分は行政には向かないとしきりに心配して居られたのを覚えて居ります(そう言えば奈良先端大学院大学の初代学長を打診された時も断って居られました)。先生はいつも出処進退を冷静に弁えて居られる方でした。
千里ライフ振興財団の理事長をお辞めになる数年前から“耳が遠くなって困った、電話がよく聞き取れない、大きな声でしゃべるので周囲に迷惑ばかりかけている”等とこぼして居られました。そして補聴器をつけられる様になりましたが、初めて補聴器を使用された時のご感想は如何にも先生らしいと思いました。補聴器をつけると雑音まで増幅されて困る、と言いつつも“我々の身体は(聞きたくない)雑音をちゃんとカットしてくれる”事を補聴器をつけて見て初めて分かったと、生体の制御の妙をしきりに感心して居られました。これこそ生物科学者、岡田善雄先生の真骨頂と思いました。どこまでもナイーブで自然現象に対して謙虚でした。千里ライフの理事長を退かれる一年程前には既に決心なさって居た様で、私には“もう辞める”と漏らして居られました。“このままでは皆に迷惑をかけるばかりだ”と言う事でしたが、先生特有の引き際を弁え、後進に道を譲るご配慮が大きかったのではと思われます。政府関連の委員会を退かれる際も含めて、先生の引き際は潔く見事でした。不謹慎と言われるかも知れませんが、誤解の恐れを押して申しますと、先生の逝かれ方も如何にも先生らしいと私には思われてなりません。長い間病床に伏して周囲のものに迷惑をかける事のない、潔い引き際だった様に思えるのです。
定年退職後、私はソウルへ研究拠点を移した関係で訪韓する事が多くなりましたが、帰国時には千里ライフの先生を訪ねるのが楽しみでした。昨年の11月初め帰国して見ますと、珍しく先生から一度来てほしいとのお便り。先生は案外寂しがりの所がありましたので、何かお元気をなくされた事でもと少々気になりながら千里ライフへ訪ねてみますと、近く予定されているご講演の準備で80年代初めに私が発表した論文データの再確認でした。こちらの薄れ行く記憶とは裏腹に先生の記憶の正確さに驚き、身の引き締まる思いで反省したものでした。いつもの様に諸々の世相を嘆かれる先生のお話を聞きながら、先生のお元気さに驚きもし、安心もしながらお別れしたのが最後になりました。西洋に起源のある科学に身を置きながらもその思想の背景は紛れもなく東洋的でした。幼少期に儒教的環境で育った私は先生のお考えに共鳴する所が多く、誰よりも先生の謦咳に接する機会に恵まれた事はこの上ない僥倖でした。いつか木方行郎先生(元石原産業中央研究所所長で先生とは大変お親しい仲)が“金さんの師匠(岡田先生の事)は関西型の最後の学者や”とおっしゃった事を思い出します。たぶん、権威に距離を置き衒いのないナイーブな先生のお人柄を指して居られたものと思いますが、お人柄においても本当に貴重な研究者だったと思います。
「追悼」を広辞苑で引いて見ますと“死者を偲んで、痛み悲しむ事”となって居ります。まともな追悼記になっていないかも知れませんが、私の知る限りいつまでも悲しむ事を先生は決して望まれない様に思います。思い出すままを記して見ました。
2008. 5. 31 ソウルにて 金 在萬