尾張部 克志名古屋大学大学院理学研究科
石川春律先生ご逝去の報は臼倉治郎(名大・工)さんからのメールで知らされた。これより3ヶ月ほど前、藤原敬己(ロチェスター大)さんから、毎年やっている放送大学夏期講義の石川先生分のピンチヒッターを頼むとの連絡が入っていたので、石川先生の体調がすぐれないことはうすうす感じていた。しかし過去にこのようなことは何回かあったし、時々検査入院をされるとも聞いていたので、まさかこれほどとは思ってもいなかった。報に接し、目を閉じると、石川先生の人なつっこい笑顔が「やぁ、どうですか」という少しハスキーな声とともに浮かんできた。
石川先生に初めてお会いしたのは1972年だったと思う。当時ペンシルベニア大からサバティカルで大沢(文夫)研に滞在中の佐藤英美先生を訪ねていらしたときに紹介されたと記憶している。”molecular anatomy”という言葉を聞いたのもこの頃だったと思う。 弟子でもない私が石川先生と身近に接し、その人柄に触れることができたのは2回の山田コンファレンス*の手伝いをしたことが大きかったと思っている。石川先生を偲びつつ、そのことについて少し述べてみたい。
1970年代に入り世界的に脚光を浴びてきたのが細胞運動・細胞骨格の分野だった。この機運を少し先取りするかのように1975年にCold Spring Harbor でcell motilityに関するシンポジウムが開催された。この会を機に細胞運動・細胞骨格の研究は爆発的に広がったように思う。我が国は江橋・大沢・殿村の各研究室を筆頭に、すでに筋収縮に関して世界をリードする研究が行われており、それに基礎をおく非筋細胞運動の研究も先陣を切っていた。しかし裾野はそれほど広くはなかったと思う。それが瞬く間に盛んになり、高い研究成果が続出してきた。その当時の熱気は、おそらく今の若い人たちには想像できないほどすさまじいものだったと思う。J. D. Watson博士が名古屋を訪れたときに、私の横に座り、線維芽細胞の図を描き、「今、自分が興味をもっているのはcell motilityだ」と言ったことを信じられない思いで聞いていたことを覚えている。
このような細胞運動研究の高まりを受けて、1978年、京都で開かれた国際生物物理学会のサテライトシンポジウムとして、私の師である秦野節司先生を中心に、石川先生、佐藤英美先生の3人が企画され、山田科学振興財団の援助を得てCell motility Controlled by Actin, Myosin and Related Proteinsと題する第1回山田コンファレンスが開かれた。今日ほど国際交流が盛んではなかった時代である。とにかくみんな気合いが入っていた。会には国内外のそうそうたるメンバーが集まり、盛会であった。石川先生は外国人の知人も多く、流暢な英語を駆使し、実に楽しそうにホスピタリティを発揮されていた。予想通り、会は成功だったと思う。このことは外国人参加者から届いた礼状の多さからも推察された。私はといえば何がなんだかよくわからないまま、ただ手足だけ動かしていたように記憶している。それでも、多くの若い人達がそうだったと思うが、論文でしか知らなかった人たちに直接会い、顔を認識し、何人かと話し、その個性に触れたことはとても新鮮であった。
この文を書くに当たり、改めて当時のアルバムを開いてみた。アルバムの縁は少し黄ばんでいたが中の写真は鮮やかなままだった。そこには,満面の笑みを浮かべ、はつらつとした石川先生の姿が至るところにあった。
これまでのご厚情に感謝しつつ、心からご冥福をお祈りいたします。
* 石川先生が関係された山田コンファレンスは2回開かれ、2回目は1984年、東京での国際細胞生物学会にあわせて、石川先生が中心になり、やはり秦野、佐藤の両先生とともに企画され、Cell Motility : Mechanism and Regulationと題する第10回山田コンファレンスとして開催された。このときも会場が名古屋だったこともあり、事務を手伝った。