岸本 健雄東京工業大学・大学院生命理工学研究科
5月になると,たまに思い出す光景がある。時はもう30年以上も昔の,1972年の5月20日過ぎ,場所は金沢八景,日産自動車追浜工場の外壁に沿った岸壁である。折りからのしょぼ降る小雨で,海は凪いではいるが濁り,油の帯が鈍く光って,犬の死骸が一匹浮いている。当時修士2年の学生であった私のいでたちは,海水パンツ姿で軍手をつけ,網の袋をぶらさげている。産卵期を迎えたイトマキヒトデの採集である。この,およそ華やぐところのないシーンが,私の,ヒトデ卵MPF(maturation-promoting factor,卵成熟促進因子)についての研究の始まりであった
前年の1971年夏,J.Exp.Zool.にMasui,Y.and Markert,C.L.の連名で,カエルRana pipiens 卵MPFの論文が発表されていた。もちろん,この論文に注目する人の数は限られていた。私達も,やがて,ヒトデ卵からMPF活性をつかまえることに成功する。その論文がNatureにno revisionで掲載されたことからも想像できるように,当時は,カエルMPFとヒトデMPFとが同じであるとは誰も思っていなかったはずである。ましてや,そのコンポーネントが酵母の遺伝学を手掛りとして解明されるなどとは,想像のしようもなかった。実際,カエルとヒトデで卵成熟を引き起こすホルモンは異なり,少なくとも当時の私達にとってのMPFは卵成熟誘起にかかわる内分泌学の中にあった
しかし,その後の展開については,かなりの人々が御存知であろう。MPFはヒトデとカエルの間での共通性はおろか,全真核細胞に普遍的なM期の引金へと飛躍し,Cdc2-サイグリンB複合体へと劇的に展開していく。分子細胞生物学におけるスターの一翼を担い,2001年には,ノーベル医学生理学賞というきわめつきの大団円にまで至る
MPFの変貌にその当初からつきあってきた者として,今,思いは複雑である。自分自身の見込み違い,あるいは思慮の浅さは,自分に対して引導を渡せばよいから,それで済む。そうではなく,ここでいいたいのは,研究というものの展開のしかたである。もちろん,個々の大きな屈折点においては,先導性と切磋琢磨によって研究の不連続ともいえる飛躍がもたらされたのは確かである。しかし,当初から今日までの全体を見据えたとき,その大きな流れは,誰によっても予期されたものでもなければ,計画されたものでもなかったはずである。サイエンスの,時代を画する進展とは,そういうものであろう。基礎研究における長期的展望,ましてや計画の達成度などという尺度が果たしてあり得るのだろうか,というのが偽らざる感慨である
ひるがえって,今の日本の科学技術政策はどうであろうか。一見したところ,いわゆるバイオブームで,重点政策の対象とされているのは歓迎すべきことかもしれない。しかし,日本語における科学技術とは,科学と技術の並列ではなく,技術のための科学である。短期的に技術に貢献する科学に価値がおかれ,役に立たないとされる基礎研究は,不当に肩身が狭い。さらには,目標を設定し,それについての達成度をもって評価の基準とするという,営利企業方式で学問を断じようとするようなやり方に向かおうとしている
基礎研究を支える体制の今後について,憂いは,深く大きい