松浦 彰千葉大学大学院融合科学研究科
ニュートンやライプニッツがこの世に生まれていなかったとしても世界は微積分を手に入れただろうが、ベートーヴェンがいなかったら交響曲第5番は決して得られなかっただろう・・・かのアインシュタインが述べたという「ニュートン=ベートーヴェン比較論」1)。確かに、ワトソン&クリックがいなくてもDNAの二重らせん構造は早晩明らかにされたに違いない。今年のノーベル医学生理学賞を例にすれば、ES細胞は他の誰かの手でいずれ単離されただろうし、ノックアウトマウスが作られるのも時間の問題だったと思われる。自然科学である以上仕方ないというか当たり前のことだとは思うのだが、しかし研究に携わっている身としては、改めてそう考えてみると少々切ない気分になってくる。
この比較論には、自然科学の対象はすでに構成された世界であり、科学者は単にその構造を明らかにするだけである一方で、芸術家は作品を作り出す際に自身の力であらたな世界を構成する、という考えが根底にある。もちろん、そういった面があることは確かなのだが、しかしその「世界」の解明という山の頂を目指すコースが多数あり、科学者自身がその中からこれこそ近道だと感じたコースを自分で選ぶところに自然科学の醍醐味があると言えるだろう。論文を読んでいて、いかにもこの人が考えつきそうな実験系だなあ、と感じたり、これほど単純な系でまだこんな画期的なことがわかるのか、と感心したり。研究の進行は人それぞれであり、何らかの結論に到達するまでの過程を記述した論文には、著者の人となりが表れる。したがって、少なくとも我々の分野の論文には、文学作品的な芸術的要素も多分に含まれていることは間違いない。
このような、研究のもつ芸術的な側面は、昨今の成果第一主義的な風潮では軽視されている部分なのかもしれない。”mission-oriented research”では、どのような過程を経たか、はあまり顧みられず、結果がどうであるか、それがどのように役に立つか、が重要視される。一方、最近肩身が狭い感じの”curiosity-driven research”では、どのようなことに興味をもったかという原点、その課題にどうやって取り組んだかという過程も重要である。学生時代、自分の研究のオリジナリティとは何かを常に考えるように、とさんざんたたき込まれた身としては、興味に始まる過程からこそ画期的な発見がある、と思いたいのだが。まあ、これからはそれだけを言っていれば済む時代ではないってことだけは確かなのでありましょう。
・・・なんてことを考えていたところ、進路を決めた10代の終わり頃、とある先生から伺った言葉をふと思い出した。その先生曰く、「数学、物理学ではその時代に一人の天才がいればよく、その他大勢はいてもいなくても関係ない(というか、その他大勢の仕事はあまり意味がない)。一方生物学では、天才の周りのその他大勢が行う研究も重要で、凡人でも十分にその分野に貢献できる」。その当時の自分にとっては大変勇気づけられる言葉であった(もちろん今でも勇気づけられる)。この言葉は生物学者から聞いた、かなり身びいき的表現であり、天才数学者の業績が多くの先人・同時代人の研究に支えられていることは言うまでもない2)。歴史から消えていったニュートンのライバルたちと同様、競争に破れた多くの生物学者たちの名前も歴史から消えていくわけだから、実際には両者にそれほど違いはないのか。ただし、我々の分野には天才でなくても大発見できる可能性が多少はある、ということは確かなのですかね。
1)世界でもっとも美しい10の科学実験 ロバート・P・クリース著(青木薫訳)日経BP社2)フェルマーの最終定理サイモン・シン著(青木薫訳)新潮文庫