室伏 きみ子お茶の水女子大学理学部生物学科細胞生化学研究室
「これまでの詰め込み教育への反省の上に立って」という論旨で,種々の教科で授業時間の削減や内容の変質が進められつつある。「理科」ももちろん例外ではない。子供達の将来にとって,この改革(?)がどんな意味を持つかということを,皆さんにも考えてみて頂きたいと思っている。研究の合間のコーヒーブレークにでも,研究室の仲間と,この問題について話し合ってみませんか?
ベネッセ教育研究所が中学3年生を持つ親たちに教科毎の必要度を尋ねたアンケート結果が,8月30日の朝日新聞に掲載されていたのを読まれた方も多いだろう。それによると,必要度の高い物から順に,国語,英語,道徳・学級活動,社会,部活動,数学,体育と続いて,理科はその下に位直している。科学技術の負の面ばかりを強調する現代の風潮も手伝ってか,理科教育が軽視されてきているのが現状だ。
文部省は2002年から実施される新学習要領の中で,教科学習の時間を減らし,その代わりに教科の枠にとらわれない「総合学習」を導入して,そこで国際理解や環境問題について理解を深める教育を行うことを,初等・中等学校に指示している。しかし,新しい「理科」の教科内容を見ると,知識が断片化され,そこには連続性が見られない。これでは子供達に,論理的思考を排して,断片的な知識を丸暗記しろと云う様なものである。この様な状況下で「総合学習」は本当に意義あるものとなるのだろうか。
科学全般に関する基本的な知識を培うことを疎かにし,科学的な思考法を身につける訓練を最小限に抑えて,環境問題など論じられるものではない。自然現象や化学物質に関して正確な知識もなく,ただ観念的に環境問題を捉えてみても,実際に何が問題で,何を解決せねばならないかを把握することは,子供達にはとても難しいだろう。様々なデータや実験の示す意味を理解できなければ,問題を問題として認識することさえ不可能である。今,地球規模での資源や人口の問題,クローン生物,病気や毒物など,科学知識と科学的思考なしには正確な把握や判断ができない問題が社会には溢れている。この状況を考えると,理科教育を軽視することが日本人の将来に陰を落とすことは容易に想像できるだろう。
現在,多くの子供達が消化不良を起こしたままで上の学校に進学していくことは確かである。高校中退者が年を増す毎に増えているのも,教科を理解できないことが原因のひとつであろう。しかし,教科教育の時間を削減し,「ゆとりの教育」や「総合学習」を始めたところで何ら解決にはなり得ない。これまでに理科は何度も学校教育の中で削減の対象となってきた。小学校低学年では生活科という教科の一部となり,高校でも理科の完全選択制が実施されて,今や,以前の中卒以下の学力で大学へ進学する学生が決して珍しくなくなっている。そして大学は,それらの学生たちを抱えて,高校程度の教科の補講を余儀なくされている。「学校教育が変質してきているのだから,必要だと思ったら大学が教育をすればよい」という意見もある。しかし,子供達の論理的思考力は,中学校・高校の段階で飛躍的に向上するものであり,大学に入ってから能力を開発するのでは既に遅い。柔軟な頭を持つ年齢で,底辺の広い基礎的学習を経て初めて,子供達の好奇心が呼び起こされ,それに続く能力開発のための訓練が可能になるというのが,長年大学で教鞭を執る私の意見である。
さらに,よりよい理科教育を行うためには,カリキュラムだけでなく教員の環境改善もまた重要である。教員のレベルアップのためには,教員が自ら学び研究する時間やゆとりが不可欠であり,そのための環境を整えることこそが,文部省に期待されている役割であろう。
2000年度から,教職免許のための教職科目の増加,総合演習の新設,教育実習の長期化と教科科目単位の減少が実施されることになっているが,これは教員のレベルアップとは全く逆の結果を招きかねない。この免許法が実施されれば,理系学部出身者,特に実験系の学科出身者が理科教員になることが益々難しくなり,教員は教育系学部出身者に限定される結果を招くだろう。理科教育では,実験や観察等がきわめて重要であり,教員の経験や工夫する能力が不可欠である。実験に親しんだ経験を持つ,理系学部出身の教員が減ってしまっては,質の高い教育など望むべくもない。本当に子供達の将来を考えるならば,現場の理科教員や理系大学教官の参加のもとで,この免許法を早急に見直し,改善を図るべきではないか。文部省関係者の再考を切に望む。