藤本 豊士名古屋大学大学院医学研究科・分子細胞学分野
この頃,若い人向けに書かれた本を読むのが好きになった。例えば「***ジュニア新書」とか,「高校生に贈る***」というような種類のものだ。数年前まではそんな本を手にとることもなかったのだが,一度何かの機会に読んで,すっかりファンになった。なぜか。結論を言えば,それは著者が同業者への変な気遣いをしていないからだ,というのはちょっと言い過ぎだが,要するにあまり細かいことにこだわらず,自分の専門領域のもっとも大切な部分をわかりやすく伝えようとしているからだと思う。それは学部学生に講義する場合にも通じるものがある。学会で話す場合にはどうしても具体的なデータが中心になる。それは当然なのだが,往々にして話している方も聞いている方も分かったような気になってしまい,その内容の本質的な意味,要するに何なんだということを考えずに終わってしまうことがある。細かいことを知らない若い人たちを相手に話をする場合にはそういう訳にはいかない。ある大学で特別講義を頼まれ,そのあとで学生たちが書いたレポートを送ってもらった。驚いたのは,こちらがディテールを話すことで「誤魔化そう」としたところを学生たちは敏感に感じとっていて,その部分についての質問が集中していたことである。学生への講義をおろそかにしてはいけないなと思う。
どうも私たちはサイエンスを教室の中の特別な「お勉強」と考えて,やたらと難しいものにしてしまいがちである。個々の具体的な事柄には難しい「お勉強」をしないと分からないものが多いが,おおもとの原理や考え方の筋道は実に単純なことが多い。普通の常識と知性をもった人であれば,特別の予備知識がなくても,面白さや新しさは分かるはずである。そういう人たちに話し掛け,わかってもらおうという努力は,自分たちの仕事を大きな視点で見直すことにつながるだろう。だからサイエンスを職業とするものにとって,その話を聞いて面白がってくれる人たちはものすごく貴重な存在である。そういう人の数が多ければ多いほど,サイエンスの発展も加速するはずだ。
ついこの間,イギリスのケンブリッジを訪れた。立派な石造りの大学の建物と美しい芝生の広がる中庭,歴史を感じさせる街並,それらは想像していたとおりであった。しかし,それ以外には何もない。僅かばかりの店も夕方早くに閉めてしまい,日曜日には開かない。一言で言えば不便で退屈な街である。
しかしそんな刺激のない街だからこそ,サイエンスを楽しむ土壌があり,多くの大発見を生んできたのかもしれないと思った。翻って我々の周りの街はどうか。24時間営業のコンビニがあり,遊びに行くところには事欠かない。例えて言えばテレビのバラエティー番組みたいである。我々はそんな「小出しの刺激」に慣れすぎて,じっくりと新しいことを見出す努力を怠っているような気がする。目先のことにとらわれ,流行を追ってばかりいるのではないだろうか。
自分の仕事について人に話すのは,研究者にとって最大の喜びの一つである。その話の大きな流れを創り出したのが自分の研究であれば,その喜びはさらに大きい。若い学生や専門外の人たちに自分の仕事をわかりやすく説明しようとすると,今自分のしている研究が「大きな流れ」を創るものなのか,「小出しの刺激」を求める無数の試みの一つに過ぎないのかを否応無しに意識させられる。やさしく書き,やさしく話すことは研究者にとって大切なことだと思う。