渡邊 直樹京都大学・医学研究科
私は子供の頃、天体観測にはまったことがある。本屋で見かけた美しい天体写真が多数載った写真集を小学3年生の頃買ってもらったのがきっかけだったと思う。パロマ天文台の5メートル反射鏡による数々の系内・系外の星雲写真に心を奪われたのである。結局、天体望遠鏡を手に入れ、夜な夜な家の前の広場にひきずるように持ち出しては、月や惑星の観測を始めていた。ところが、間もなく星雲を探しても写真のような見事な色をした姿には、決して見えないことに気が付いた。これには相当失望したように思う。その後、写真集の世界に近づきたい一心で、カメラや写真の現像にも手を出したあげくそちらが面白くなってしまい、中学にあがる頃には星の観察には熱心でなくなってしまった。高炉がある夜空が恒常的に明るい街に住んでいたこともあり、本当の星空を知らない天文少年であった。
さて、上記の失望に至った理由はというと、単純なことでカタログや解説書にある集光力とか極限等級とかの望遠鏡の性能が星雲のような淡いシグナルにも適応すると子供心に信じたためであった。例えば、オリオン座大星雲は4等級と書いてあるが、実際小口径の望遠鏡では、赤色に弱い網膜にはなかなかきれいに見えてくれない。点状の星であれば、白鳥座の二重星アルビレオのオレンジと青色の美しいコントラストなど、簡単にみえたのを覚えている。
時が経ち、99年に留学した先で、アクチンのスペックルイメージングを手がけることになった。ご存知のように当時、既にClare Watermanらによって低濃度の蛍光チュブリンやアクチンによって細胞骨格が斑に標識され、その移動が可視化される例が示されていた。それゆえ方法論には新規性はなく、アクチンスペックルの観察系の立ち上げに成功してからも黙々と実験を進めていた。しかし、どうやら密度の低いところでは、GFPアクチンが1分子ごとにみえているのではと次第に思うようになっていた。と同時に、アクチン線維の局所重合を測定してみたい、ちょっとしたデータ(未発表)に出くわしたため、アクチン線維と共重合した標識分子の出現頻度の定量化という方法論の導入が、自分の中でとても大きな課題として首をもたげることとなった。
それからが大変で、数を数えて定量化する以上、1分子であるという前提の証明に迫られることとなる。ラボの仲間は、私のGFPアクチンムービーをきれいだ、と褒めてはくれるのだが、1分子だという私の主張に対しては、ときに天動説まがいの可能性をくり出して、こちらの考えを正そうとしたりする。最終的にエビデンスのデータを何人かの前で提示したとき、ボスのTim (Mitchison)が「今なら信じる」と言ってくれたが、うれしかったと同時に、彼らの科学の進め方の厳しさを痛感した場面でもあった。
当時、インビトロでの1分子観察は、柳田敏雄先生らの一連の仕事を発端に力強い展開をみせていたが、細胞内では自家蛍光分子の1分子可視化も可能という論文などあり、現実的なアプローチとして考えにくい背景があった。実際、細胞核周囲には淡い自家蛍光を発する小器官が肉眼でもはっきりとみえる。この状況において、観察対象がアクチンであったのが幸いした。細胞内アクチンと共重合したGFPアクチンは自由拡散をやめるため、CCDセンサーに露光される2秒の間、一所に信号を送りつづける。かたやカメラノイズはよりランダムであり、重合していないGFPアクチンや自家蛍光からの信号は拡散し、かすんでしまう。照明を細胞辺縁に限局したことにも助けられ、低密度でレトログレードアクチンフローに乗って移動する点状のシグナルは、ノイジーな雲のなかでも追跡可能な、線維状態にあるGFPアクチン1分子からのものであった。
子供のとき星雲がみえないことに失望し、スペックル顕微鏡では逆に点状のシグナルだけを追えることに助けられたことは、自分のなかでは何か運命めいたものに感じられる。共通するのは、天体写真をみたときもGFPアクチンのムービーを撮りはじめたときも形の美しさに魅了され、どのような法則が支配するのか想像をかき立てられたことかもしれない。我々は細胞生物学という分野にいるわけだけど、対象である細胞は1つをとっても宇宙のごとき複雑系が存在する。例えば、細胞内には1億個近いアクチン分子が存在すると見積もれるが、これは15等級までみえる立派な望遠鏡でみれる星の数ほどである。私の実験では数百個の分子を全体の代表として可視化するが、そうすることで過密な細胞内の性質がようやくみえてくることがある。そして、それは細胞構造に寄り添う分子だけでなく、細胞シグナルや薬剤など背景の雲の成分、つまり拡散性の因子の性質と密接につながっていたりする。このちょっとした小宇宙を分子でのぞきながら、より広い生命現象に隠されたパズルの謎を解いていきたいものである。