多賀谷 光男東京薬科大学生命科学部
ノーブレス・オブリージュ という言葉をご存じだろうか。高い地位についている人はそれに見合った義務を背負っているという意味である。欧米では社会的地位の高い人はチャリティーやボランティア活動に熱心であるが,その背景にはこの考え方があるといわれている。この概念に相当する言葉は日本にはないが,しいてあげれば「武士は食わねど高楊枝」であろうか。少し意味は違うかもしれないが,「高潔な精神を保ち,お金儲けに走らない」という点での共通性はある。
戦後日本は目覚ましい復興を遂げたが,それは日本の将来のことを考えていた政治家,官僚,企業経営者が少なからずいたからではないだろうか。それは科学の分野でもいえることだろう。しかし経済が良くなるにつれて,特にバブル経済の前後から日本では高い地位の人が責任をとることが皆無となってしまった。政治家は賄賂をもらった責任を秘書に押し付け,銀行の頭取は不良債権を隠し,官僚は「ゆとり教育」の結果として低下しつつある学力に対して「根拠はない」とつっぱねる。諌早湾の干拓問題は,地元の人たちにとって水門を閉め続けるも地獄,開けるも地獄という状態となってしまったが,「この干拓事業では漁業等にほとんど影響は出ない」と報告書を提出した政府諮問委員たちは誰一人として謝罪をしていない。
大学における教育・研究の問題にしても大学教授の多くはその地位に見合った責任を果たしているとは私には思えない。私は最近「偏差値に罪はない」(四谷ラウンド社)という本を出版し(http://www.ls.toyaku.ac.jp/~tagaya/book.html),その中で日本の大学制度や大学人を批判した。
日本の研究をリードする某国立大は「高齢な人の中には深い学識と広範なネットワークを持つ者もいる」という理由で,「高齢者からは良い研究が生まれない」と反対する名誉教授たちの意見を無視して,定年を60歳から65歳に引き上げた。幸いその大学にも良識派はいて,学部によっては高い評価を受けた者だけが65歳まで残れるようになったらしいが,定年を引き上げた総長の出身学部は自動的に65歳定年をまっとうできるらしい。
国立大の独立行政法人化に対する反対意見として,某教授は「全ての国民に対して国は教育を受ける権利を保障しなくてはならない」と,のたまわった。しかし,今まで,そして今でも,大学入試の点がたった1点足りないために,国立大学の3倍近い授業料を払わなくてはならない私立大学へと進学している学生が多くいることを全く考えていない。「独立行政法人化されると基礎研究がおろそかにされる」と主張する人は多いが,大学の重要な目的の一つは学生に「課題探究能力」を付けさせるということであり,難しく,チャレンジに富んだ研究をさせることは,そのための何よりも良い教育であろう。そういう確信があれば,レベルの高い基礎研究を学生と共に行っていくことが重要であるということを文部科学省の役人に堂々と主張できるはずである。
大学院重点化は研究費や教員の給料が上がるという理由だけで,そこでの教育や研究体制などは十分論議されずに,旧帝大はみんな重点化された。それがどのような結果を生み出しているのか,重点化を決めた教授たちにはよく見て欲しい。大学4年生は「憧れの大学の大学院に入りたい」という気持ちで心が占められ,自分の将来や研究能力について深く考え悩むことが非常に少なくなってしまった。重点化する時に助手職を助教授や教授に振り替えてしまったために研究の担い手を失い,かえって研究が進まなくなってしまった。
某重点化国立大にいるとマスコミにも注目されやすく,文部科学省とのつながりも強く持てるが,「理科教育が危ない」とか,対談でマスコミに登場するとか,政府の審議員になるとかの前に,重点化大学院の教員ならばまず研究業績を出すために可能な限り時間を費やすべきではないだろうか。アイデアを出し,研究遂行のための体制作りをし,就職活動に専念して研究をしようとしない大学院生を叱りつけることが義務ではないのか。それが嫌ならば重点化大学院を辞して地方国立大や私立大へと行けば良いのである。
トップクラスの大学の教授の人にはノーブレス・オブリージュという精神をぜひ持っていただきたいと思う。また,国立大学教員にはその給与が国民の税金から支払われていること,そして国家財政は破綻状態であることを考えて欲しいのだ。