後藤 由季子京都大学ウイルス研究所
実験室の机から窓の方を眺めると,今日もカエルが泳いでいる。もちろん水槽の中をである。院生のひとりが卵から育てたもので,なぜか夜店で釣った金魚も一緒に泳いでいる。そろそろ大人になってきたのでオスメスを別々にしようかなどと,娘を女子高にいれる父親のような気分になったりもする。ここまで大きくなるまでに彼等カエルたちは形態的に著しい変化をとげてきた。変態について知識としてはわかっていたつもりでも,いざ立派なオタマジャクシが,オタマジャクシであることをやめてカエルになっていくのを目のあたりにすると驚きを感じる。進化の専門の方に伺えば,必然性を説明していただけるかもしれないけれども,私には一度作ったものをかなり壊して次のものを作る,変態という現象が不思議に思えてならない。どこか無駄があるような,それでいて自然の神秘を垣間見ているような気がする。しかし“無駄”という考え方は,生きる“目的”を仮定するからであって,何も遺伝子を次世代に残すことだけが生物の生きる目的ではないだろう。
話は変わるが,先日某先生がお酒の席で,スペインでガウディの建築物を見物なさった時のお話しをしておられた。先生にとって何より印象的だったのは,ガウディの未完成の作品が,完成品に劣らず美しかったことだそうだ。先生いわく,“真に優れたものは,プロセスも美しい。”先生のお話しは,優れた研究は,成果だけでなくその発端,発展の流れも優れているという点にまで及んだ。私も碓かに,論文を読んで感動するとき,結論に感動することも多いがポリシーのある実験の展開に感動することが多い。自分では,研究の美しい展開を目指すなどというおこがましいことはできそうにないので,結果を出す以前の,実験の道のりを楽しめたら上出来のように思う。研究の内容自体もさることながら,研究生活が成果を得る為だけに存在するものとしてではなく,実験生活やラボ内外の人達との関係を含めて,プロセスを楽しめたらこんなに素晴しいことはないなあ,と,明らかに何にも考えていないカエルを眺めながら考えた。