馬渕 一誠東京大学大学院総合文化研究科
細胞生物学の発展に最も影響を及ぼしてきた出来事の一つは顕微鏡の開発である。なんといっても細胞や生体高分子を目で見ることは生物学の究極の手法であり、論文の中で良い顕微鏡写真を使うことができればもっとも説得力があり、論文を書くほうにも充実感がある。
顕微鏡開発の歴史の一部は国立科学博物館の日本館の展示で見ることができる。今年、その常設展示に一つの顕微鏡が加わった。それは団ジーン博士、団勝磨博士(いずれも故人)が持っておられた位相差顕微鏡である。科博の方のお話では、常設展示に途中から新たに展示が追加されるのは極めてまれだそうだ。それだけこの顕微鏡の歴史的価値が認められて展示されたことがわかる。
本学会の会員も年々若くなっているのでこの顕微鏡の由来を知る人は少なくなっている。若い会員の方々も読まれていることを期待して、いささか長くなるが、この顕微鏡にまつわる話を書いておこうと思う。
元東京都立大学の学長をされた団勝磨博士は血盟団事件(1932年)で暗殺された三井財閥の創始者、男爵・団琢磨氏の次男だったが、父親の生き方には反発していたそうだ。団琢磨氏がマサチューセッツ工科大学を卒業していたので、勝磨氏は父親を超えるつもりで、アメリカの大学院に行くことに決め、東京大学大学院を中退してペンシルバニア大学大学院の、当時著名な細胞生物学者Heilbrunn教授のもとに弟子入りした(1930年)。そこでアメーバやウニ卵の表面電位の研究を行った。ウニ卵の研究のためにはウッズホールの臨海実験所(MBL)に出かけた。2年後に同じ研究室に大学院生として入ってきたジーン・クラークさんと恋に落ちて結婚の約束をした。
勝磨氏は1934年にPhDを取得し、帰国して東京大学三崎臨海実験所の副手(無給)になった。2年後にジーンさんも海産動物の受精の研究でPhDを取得し、勝磨氏はふたたびアメリカに渡ってフィラデルフィアで二人は結婚した。その後二人は新婚旅行でヨーロッパからインド、中国をまわり、日本に帰国し、三崎臨海実験所で研究を再開した。この時の研究はコマチ(ニッポンウミシダ)の産卵の研究だった。しかししばらくして日米は戦争になり、ジーンさんは我が国にとっては敵国の人間となってしまった。彼女は1938-1943年の6年間に5人のお子さんを出産されていて、家族の安全のために疎開もせざるをえず、研究どころではない年月を過ごされた。戦争中に敵国の人間として日本に住み、5人のお子さんを育てるという状況は私などの想像力を越えている。
1945年8月の日本敗戦後、米軍が三崎臨海実験所を接収するという直前に勝磨さんは筆と墨汁で“The last one to go”と署名した、米軍将校宛の書置きを実験所に残して退去した。彼は「あなたたちは武器などを破壊しても構わないが、この実験所は平和な研究を行う学生たちのために保存しておいて欲しい」という訴えを書いた。この書置きは米軍将校によってアメリカに持ち帰られ、MBLに届けられた。それをみたアメリカの研究者たちは、この書置きは勝磨が書いたものだ、勝磨もジーンも無事だったのだ、と確信して喜んだということだ。“The last one to go”は現在、MBLの研究棟に展示されていて、訪れる日本人研究者に感動を与え続けている。
戦後1947年、ジーンさんは10年ぶりにアメリカに一時帰国したが、その時、アメリカのBausch&Lomb(ボシュ・ロム)社が位相差顕微鏡のアメリカ第1号機を製作していた。アメリカの研究者たちは、ジーンさんにこの顕微鏡を勝磨さんへの土産として持って帰ることを強く勧め、ジーンさんはアメリカ哲学協会会長の資金援助を得て購入し、1948年に日本に持ち帰った。ところが勝磨さんは、自分はいらないからと言ってジーンさん自身で使うように強く勧めたそうだ。そこでジーンさんはこの顕微鏡を使って1950-54年に、ウニ、ヒトデなど海産動物の精子が卵の表面で先体反応という反応を起こして卵に侵入することを発見した。それまでは受精の際に卵が糸を伸ばして精子を引き込むという説が信じられていたが、実はその「糸」は先体反応の結果、精子から生じたもの(先体糸)であることが分かったのだった。これが先体反応の発見である。
先体反応の発見はそれだけにとどまらず、その後の生物学に大きな影響を与えた。その一つは先体反応がヒトを含む哺乳動物の精子でも起こることがわかった(先体糸の伸長は起こらないが)ことである。これにより受精のメカニズムの理解はおおいに進んだ。もう一つは、ペンシルバニア大学の鬼才Lew Tilneyが先体糸伸長はアクチンの重合によって起こることを明らかにしたことである。これはアクチンがミオシンとの滑りを介してだけでなく、重合によっても細胞変形(細胞運動)に寄与しているという大きな発見で、細胞運動の分野に革命的な影響を及ぼした。
一方、この位相差顕微鏡は当時、位相差顕微鏡の作成に試行錯誤していた我が国の顕微鏡メーカーの唯一の完成品モデルとして活躍し、各メーカーの技術者が三崎臨海実験所を訪れてこの顕微鏡を調べたそうだ。現在は国内メーカー各社が世界トップの顕微鏡を作っていて、位相差顕微鏡は国内のどこの大学にもあるが、それらの顕微鏡はこの顕微鏡が元になっていると言っても過言ではない。
この位相差顕微鏡はジーン博士が1978年に亡くなられた後、勝磨博士が本郷の浜野顕微鏡店に預けられていたが、1996年に勝磨博士も亡くなり、誰の目にも触れられずに眠っていた。これだけ貴重な顕微鏡がこの状態ではあまりにもったいないというので、2002年に三崎臨海実験所に展示された。しかし、海岸付近は精密機器の保管には不適であるのと、実験所の建物が老朽化して「危険建物」指定されたので次の行き先を探していたところ、幸いにも昨年(2017)、国立科学博物館に引き取られ、この3月から常設展示として一般公開された。これまで臨海実験所関係者しか眼にすることができなかった顕微鏡を誰もが見ることができるようになったわけである。
位相差観察の原理はオランダのZernikeが1930年代に開発し、1953年にノーベル物理学賞を受賞している。光の波動、回折、干渉を理解していないと考えつかなかった原理で、天才物理学者のおかげと言えよう。位相差顕微鏡そのものはCarl Zeiss社が最初に作成していたが、普及には至らなかったそうである。これに対して團夫妻のBausch&Lombの顕微鏡はおそらくさらに完成度が高かったのだろう。私自身も2001年、三崎臨海実験所に展示される前にこの顕微鏡でウニの精子を観てみたが、現代の位相差顕微鏡に比べて遜色のない見え方だった。
その後1950年代にNomarskiがノマルスキープリズムを開発し、明視野光学顕微鏡のもう一つの主流となる微分干渉顕微鏡が普及した。
一方、蛍光顕微鏡法は、蛍光コンフォーカル顕微鏡の出現によって頂点に到達したと思っていたら、近年、超解像顕微鏡が開発された。
透過型電子顕微鏡は、発明されてまもなくその基本仕様は完成され、あとは試料作製法の改良・開発が主要な進歩だったという印象である。試料を真空状態にする必要があるため、水の中にある「生きた」ものは観察できないという限界があった。しかしクライオ電子顕微鏡法が開発され、水を含んだ「自然状態」のタンパク質分子の超分子構造解析に役立っている。
このように限界を次々と突破してくれる優れた顕微鏡法は、主に物理学者やいわゆる生物物理学者によって開発され、細胞生物学の進歩に貢献してきた。分野をまたぐことによって科学が進歩してきたことを如実に示している象徴的事実だろう。今後も細胞生物学は他分野とのコラボレーションによって進歩していくであろうことを考えると、細胞生物学者も広い視野を持って研究に臨まなければならないことを実感する。
追記)団ご夫妻のことを詳しく書いた本はいずれも絶版ですが、2冊出版されています。今はない学会出版センターが「ウニと語る」という勝磨さんの伝記を、講談社が「渚の唄」というジーンさんの伝記を出しています。また最近では「井上信也自伝 細胞生物物理学社への道」(青土社、2017年)にも多く書かれています。