鐘巻 将人国立遺伝学研究所
この度、東工大の加納ふみさんから伝統ある会報「細胞生物」巻頭言執筆の依頼をいただき、安請け合いしたのだが、過去の巻頭言を書いた方々のお名前を見て、大変なことを引き受けてしまったと大いに後悔した。今まで根無し草的にキャリアを積んできたこともあり、これまで学会にコミットしたこともなければ、研究者としての心意気を示すような文章を研究者コミュニティーに向かって書いたことが一度もなかったのだ。不安にかられながら、先人の巻頭言を読んでいると、各々研究者としての経験や師弟関係に関する内容が多い。それらは多くの教訓を含んでいて、大変興味深く、読んでいると時間を忘れてしまいそうである。自分もこれまでのキャリアから多少なりとも思うことはあるが、n=1の経験ゆえ開陳してどの程度皆さんの参考になるのか、また普遍的な内容があるのか全く自信がない。暫く考えた挙句、ずいぶん前に読んだ内田樹著「先生はえらい」という本のことが頭に浮かんだ。
研究者には研究者道のメンターもしくは師匠というような方がいて、その方の研究流儀を受け継いでいる、と感じている読者は多いと思う。私もそう感じている部分はあるし、実際に研究者の系譜というのは大変興味深い。しかし、この本を読んでハッと思う点があった。ネタバレにならない程度にこの本の内容を説明すると、「師弟関係による創造性の学びは、弟子の勘違いから始まる」とある。一例で紹介されているのは、自動車の運転法を教習所の先生から学ぶことと、F-1ドライバー(例えばルイス・ハミルトン)から学ぶことの差で説明されている。
教習所の先生は、免許試験に通るための運転技法や法規を分かりやすく教えてくれる。一方、ルイス・ハミルトンが伝えた運転法を私たちの多くはとても理解できない。それにもかかわらず、多くの方にとっては後者の方が印象深く、そして創造性や芸術性につながるような何かすごいことを教わったと感じる。それは、私たちが理解できないものをルイス・ハミルトンが持っていると、私たちは勘違いし、そこから勝手に何かを学んだからと説明される。そして、「主体的な学び」「学びが開く創造性」は全て受け手の誤解から誘起されるもので、先生という存在の本質は、弟子が理解できない「何か」を与えることにあると説明される。つまり、弟子が理解できない「何か」を感じるのであれば、先生は直接会ったことない人でも、歴史上の人物でも良いのである。
考えてみると自分にも思い当たる節がある。私がマンチェスターでポスドクをしていた際のメンターは、Karim Labib(現ダンディー大学教授)というイギリス人であった。今ではDNA複製研究分野でそれなりに有名だが、2001年に私が参加した当時はまだラボもできたばかりで、実際に私がポスドク第一号であった。また彼はイギリスの知識人にみられるunderstatementを持って良しとするところがあり、派手な研究者ではない。冷静にみると、誰もが日本から憧れてポスドクをしに行く有名ラボではなかった。でも私は、論文や彼の噂から勝手に彼がすごい人物だと憧れていて、何でも吸収したいと思っていた。それは研究だけでなく、彼のイギリス英語であったり、映画の趣味であったりもした。また実際に、彼は私を大変可愛がってくれた。一緒に過ごした5年間は自分が研究者としての基礎を確立するための大切な期間だったと思うが、思い返してみると不思議なことに直接論文の書き方を教わったり、ラボ運営を教わったりしたことは何もなかった。しかし、今でも自分の中には「Karim先生」がいるように感じる。それは、私が勝手に作り出したもので、実物とは違うのだろう。でも何か判断に迷う時があれば、心の中のKarim先生に聞いてみて、彼だったらどうするのかなと考えてみる。そうすると、心の中のKarim先生は“I do this!”という返事をくれる。自分の勝手な誤解からこういうものを得ることが、実は師弟関係の本質なのかもしれないなと、この本が気づかせてくれた。
私も研究者として、教育には関心があるが、今の社会が期待するようなサービスとしての教育が、創造的学びに繋がるのか疑問に思う。結局のところ、受け手が勘違いしたい覚醒状態になければ、創造的学びにはつながらず、覚醒はメンターが容易に与えられるものではない(興味深いことに子供の方がより覚醒具合が高いように見える)。突然変異的に覚醒する人はある割合存在するが、全体の覚醒具合は時代の空気の影響が大きそうである。折しも、新型コロナウィルスによって世界は大混乱に陥り、この先に経済的不況がやってくると予想されている。歴史的に日本人が覚醒するのは危機に瀕した時という事実を考えると、今後経済的には向かい風が吹きそうだが、細胞生物学研究者に対して理解できない「何か」を感じて、「勘違い」から創造的学びを得る若者が増えることを期待したい。