妹尾 春樹秋田大・医・細胞生物
細胞生物学は分子あるいは細胞レベルで生命の不思議を明らかにしていこうという学問です(このあたりの文章はもちろん「釈迦に説法」であることは心得ています)。この学問の発展は目覚ましいもので、毎日のように地球上のどこかで新しい発見があります。そういう知見に触れると、細胞ってこんなこともしているのかと興味深いですし、生命って面白いなーと感動します。時には自分も面白い所見を得て嬉しく思います(無論滅多にないことですし、あくまで自分のレベルにおいてですが)。こういう研究という営みが世界中でなされていて、この分野での、大げさに言えば人類の知の範囲が広がっていくのだと思います。
そこで、細胞生物学の研究成果が挙れば挙るほど、細胞は、あるいはもっと広く捉えて生物は、分子で巧妙にできあがった機械であることが明白なっていきます。そこには分子・細胞で説明できない生命力などないことがますます明瞭になっていきます。さて、話は変わります。最近日本からだけでなく殺人事件は毎日のように報道され、親が子を、子が親を、あるいは子供が子供を殺したという事件にも、「ああ、またか」みたいな受け取り方をしてしまうことがあります。これは、もしかすると自分が毎日、細胞や人体は精巧な機械であるといった視点を持って生活しているのが、そのように感じさせるのかとも疑ってみることがあります。殺人事件の増加(はっきりした統計をもとに書いている訳ではありませんので、実際は増えてはいないのかもしれません)の背景には人を分子からなる機械とみなす(たとえ人知を超えるくらい精巧にできてはいても)見方、細胞生物学の視点もそうと言えますが、が一因として存在しているのではないかと想像することがあります。
私は医学部で組織学、解剖学、細胞生物学を授業し、実習を担当していて、解剖実習の際には学生に「解剖実習を通して人の尊厳も学ばなければいけない」といった指導をします。しかし、実際に人類が今日まで築き上げた知識の体系として学生諸君に伝えるのは、人体のなかを血管や神経はどのように走り、腸はどこで曲がり、どの筋肉はどの神経に支配されているか、ということであり、顕微鏡で観察すると細胞はどう並んでいるのか、細胞内では遺伝子にある情報がどのようなメカニズムで実際にたちあらわれるか、細胞骨格がどのように細胞の運動を制御するか、といったことなのです。人に尊厳がなぜ備わっているのかは説明しません。
細胞生物学という学問分野は私自身好きですし、興味深い事に満ち満ちていると思います。しかし、細胞の機能や形をいくら詳細に正確に解明していっても、そこからはいのちの尊さ、あるいは生命の尊厳といったことは生まれて来ないのです(少なくとも今までのところは)。
これはちょっと寂しい感じがしています。自分が興味をもち、一日の大部分をその為に使っている学問体系が、実は生命の尊厳とかいのちの大切さとかに対して説明をつける事ができないというのは歯がゆい感じがします。細胞生物学は学問としてますます発展するでしょうし、この学問の持っている視座はますます一般に浸透し広まっていくと確信されますが、将来この学問から生命の尊厳やいのちの尊さがおのずと発信できると素晴らしいだろうなと考えることがあります。もっと遠慮なく言えば、人間の死生観にも影響を与えるような学問に発展して行ってくれないものかと考えることがあります。
以上は、「お前の言っている事は魚屋に行って『文房具を下さい』」みたいなものだよって笑われるかも知れないことを覚悟で記しました。