一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.19 September & October (1) 憑神(つきがみ)

豊島 文子 (京都大学ウイルス研究所)

 ノーベル賞の季節である。今年は、物理学賞に三人、化学賞に一人と日本人の活躍が目立った。特に化学賞を受賞された下村脩博士は、細胞生物学者が頻用するGFPの発見者であるから、とても身近に感じられる。下村博士と交流のある先生方に、GFP発見の経緯や下村博士の研究者魂などについてお話を伺う機会があればと思う。

 凡人の単純な疑問であるが、ノーベル賞はどのような研究者がもらうのだろう?大きな発見や研究の格段の飛躍の陰には「セレンディビティ」があるとよく言われるが、どうもそれだけではノーベル賞には至らないような気がする。毎日実験を続けていれば、小さいながらもセレンディビティはあるし、こういう研究をすれば一流紙に載るだろうなというようなテーマをふっと思いつくこともある。しかし、気力と興味が続かないのである。では、日々の気力と努力が重要か?もしそうならば、日本人研究者の多くはノーベル賞候補のはずである。下村博士はオワンクラゲを100万匹近くも捕獲したそうである。しかも家族までがそれを手伝ったというから驚きである。2002年に医学・生理学賞を受賞したシドニー・ブレンナー博士は、線虫初期胚発生過程と細胞系譜を100ページ以上にわたる論文にまとめている。2007年に医学・生理学賞を受賞したマリオ・カベッキ博士は、NIHグラントに見向きもされなかったことをものともせず、不可能といわれたノックアウトマウス作成技術の開発に成功している。彼らをそこまで駆り立てたものは何か?「セレンディビティ」や「努力」を遙かに超越した力が感じられる。凡人の私は、やはりそこに「憑神」の存在を考えずにはいられない。そこで、ミーハーな素人考えに、ノーベル賞にあやかるための「憑神3原則」を考えてみた。

 憑神3原則その1:憑神には種類がある。
研究者は研究分野を担当する憑神にとりつかれると、猛烈に実験を始める。ここで注意しなくてはいけないのは、憑神には2種類いるということである。つまり、”vision”を持った憑神と持たない憑神である。”vision”を持った憑神にとりつかれると、研究は発展、展開していき、ノーベル賞に繋がる可能性もある(かもしれない)。反対に、”vision”を持たない憑神にとりつかれると少々問題である。研究者はとりつかれているので、喜々として実験をするが、それは単に機械的なルーチンワークであったり、重箱の隅をつつくような研究であったり、はっと気がつくとゴールの見えない迷路の中に迷い込んでいたりする。研究者は、憑神にとりつかれる前に、その種類を見極めなくてはいけない。

 憑神3原則その2:憑神は時に研究者を惑わせる。
幸運にも”vision”を持った憑神にとりつかれ、研究が進展・発展していくと、研究者はとても嬉しくなる。自分には才能があると思うことが出来る。しかし、ここで研究者は冷静にならなくてはいけない。というのは、憑神は時に、研究者を自信過剰の罠に陥れるからである。自信過剰になった研究者は、今度は自分の予想や考えにとりつかれる。それとは相反する事実を曲げようとする。いわゆる「捏造」である。研究者は、憑神の罠に陥らないようにするため、冷静、沈着な精神と余裕を持っていなくてはならない。

 憑神3原則その3:自分が憑神になる。
ノーベル賞受賞者の研究内容を見てみると、多くのものは、その後の大きな研究領域の発展の基盤になるものであったり、世界中の研究者が使用する技術であったりする。あたかも、その人にとりついた憑神が、世界中に伝染したかのごとくである。おそらく、研究内容ももちろん重要であるが、それに加え、その発見・技術革新が「すごく面白い!」との研究者の喜びと信念が、周囲の人々に伝搬し、行動を変えさせるほどの威力があるかどうかも重要であろう。この威力は、やはり研究者自身が、自分にとりついた憑神そのものになった時に発揮されるのではないだろうか。憑神になるためには、研究者は自分を知らなくてはいけない。自分がどのような性質の人間で、何に興味と喜びを見出すかを知り、何を失うことを恐れているかを知り、何を選んで何を捨てるか。濃縮・発酵された憑神の渾身のメッセージが、ノーベル賞に繋がると思えてならない。

 以上、つらつらと素人考えを並べてみたが、それにしても憑神はどこにいるのだろう?クリーンベンチの裏にいるのか?論文の行間にいるのか?毎日覗く顕微鏡の視野の中にいるのか?そもそも、こんなことを考えている私には、当分憑神も寄ってきそうに無いなと思いながら筆を置く。


(2008-10-15)

日本細胞生物学会賛助会員

バナー広告