一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.20 November (1) 少し立ち止まって思うこと

鈴木 厚 (横浜市立大学大学院医学研究科)

 下手に知恵(知識)がついていない若者の特権の一つは、自分の知っている非常に限られた事実や知識から妄想とも言えるエラそうな仮説を抱きうることである。何を隠そう私にも、昔、そういう時代があった。ご多分に漏れず物理学を目指すことに早々に挫折した大学2年生の私は、古本屋で偶然手にしたオパーリンの「物質-生命-理性」やシュレジンジャーの「生命とは何か」という本に痛く感動し、生命現象の基本原理を物理化学の法則の発展として捉え解明しようとやおら決意し、大学院では生物物理学を専攻することとした。そして、RIを使いながら一生懸命塩基配列を決めていた同級生(たとえばN君)の姿を尻目に、「生命の本質は遺伝子のみで決められるような単純なものではない!」と(心の中で小さく)息巻いて、試験管内でアクチンを重合させ、種々の条件でその溶液物性をひたすら研究した。そして、その物性が棒状高分子として理論的に予測されていたものと非常によく合致することを明らかとした上で、「”細胞内におけるF-actin集合状態の多様性”の基礎にはこの基本物性が横たわっている。生命は、この基本物性を修飾する多様なアクチン結合タンパク質を進化させることによって、細胞内F-actinの動的制御を実現してきた」という「概念」を打ち立てそれで博士論文を書いた。このときの一連の論文は当時の私としてはかなりの自信作であったのだが、その「高尚な理念」は、当時も、そして今も、未だ世の理解するに至っていない。一方、その後の生命科学の展開は、私の稚拙で単純な予想を裏切って、生命現象の解明に遺伝子の研究がいかに重要であるかをいやおうなく明らかとし、他方、今日の細胞生物学のキーワードの一つでもあるアクチンフィラメントの動的挙動の研究も、上記「概念」などを全く必要とすることなく大きく発展してきた。

 こうした自分の「ほほえましい」過去を振り返ってふと思うのは、目の前にいる現在の大学院生達のことである。果たして彼らも、このような足の地に着かない、自己満足かも知れない抽象論を振りかざしながら、「生命とは何か」という議論をするような素地の中で研究生活を送っているのだろうか?たぶん、答えは否であろう。もちろん、このことが重大な問題だと単純に言いたいのではない。こうした抽象論を楽しむことが現実的な研究の進展に直結しないことは、私自身が実証している。ただ、(異論をもたれる方もおられるであろうが)同世代でも古いタイプに属する私は、彼らがもっと、(生命)科学の歴史や種々の成果から、自然のあり方、科学の方法、あるいは、科学の発展法則を抽出するような、昔はさかんであった抽象的な議論に触れる余裕も少しはあっていいのではないか?と思ってしまう。それは、「教養主義」とも評される、一見、愚にもつかないようなこうした議論が、少なくとも今の私にとっては研究者としてのバックボーンを形成しており、それが自分の研究、そして研究者としてのあり方に「見えない形で」役に立っていると「感じる」からである。

 こうした私の感想への賛否はともかくとして、ここからさらに思いを馳せて思うのは、そもそも大学院生達に直接接する私たち自身が、日々の研究、業績と実務に追われて、こうした議論に思いを馳せる余裕をなくしているという事実である。昔は、モノーの「偶然と必然」やドーキンスの「利己的遺伝子」などの本を喜々として読んでいたものである。そもそもそういう話題となる著作自身が世界的にも少なくなっているのではないであろうか?書籍の衰退という問題もあろうが、あまりに科学の進展が早いこともあって、常に「新しいもの」に目を奪われて、科学研究者の世界自身の中で、現在の科学の到達点を丁寧に整理して、それを若者に伝えていく努力が弱まってきているような気がするのである。大学院の授業をするにあたっても、一年前の内容があっという間に古くなってしまい、新しい知識を仕込まないといけないような(気がする)時代である。ただ、GFPにしても、RNA干渉にしても、それらが発見、応用されてくるvividな経緯を目の当たりにしてきた私たちと違って、学生さんたちは、どうしても現代という時間的切り口で、これらの成果を何かずっと昔から確立していた事実のように理解しがちである。これはあまりよろしくない。そこで私なりに、なんとかその辺をカバーできる講義を、、とささやかな努力もするのであるが、「新しいこと」を次々と吸収することに習い性になっているいまどきの学生さんたちの胸には、正直、私の声はなかなか届いていないようである。自らの力不足を痛感するのであるが、一つの講義くらいでは簡単には解決しない構造的な問題の存在もこの底流に感じている次第である。

 いずれにせよ、いつのころからか大学、学問、科学をめぐる状況が大きく変わったということなのだと思う。ただ、真理の探究を本来の目的とする大学、学問、科学の本質は、私が大学院生であった時代から変わっていないはずである。激動する時代の中にありつつも、それに呼応しつつ、とは言え振り回されることなく、なんとか丁寧に研究と教育を積み重ねていければ、、、、、。今回この雑文を書く機会を与えていただいた「今の私」が抱いている、新たな、そしてエラそうな妄想である。


(2009-11-27)

日本細胞生物学会賛助会員

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