一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

Vol.19 June,July & August (3) 追悼!岡田善雄先生

目加田 英輔

私は1974年に大学を卒業し、すぐに岡田研究室に研究生として入りました。岡田善雄先生が阪大微研で教授になられたのは1972年11月ですので、岡田研が立ち上がって1年少し経過した頃に教室に入れていただいたことになります。それから、1988年秋までの約14年間を岡田研で過ごさせていただきました。岡田研は、研究室が微研本館の1階にあった第1期、微研テニスコート横に新しく完成した北館に移った第2期、それから細胞工学センター時代の第3期に分けることができるかと思いますが、なんといっても印象的なのが1978年までの第1期です。その時の研究室は、もともとは会議室だったところを実験室に改装したということですが、日当たりの悪いところでした。湿気が多いからか、夜9時を過ぎるとゴキブリがゴミ箱の周りを歩き回ってガサガサ音を立てて、ひどいときには研究室内を空中飛行するようなところでした。また、この頃は実験器具がほとんどなく、ピペットや試験管ですら足りなくて、実験中に慌てて洗って使うこともよくありました。細胞融合実験に使う試験管を、当時の岡田研ではfusion tubeと呼んでいたのですが、この試験管ですらいつも足りない状態で、毎日の実験終了後は自分で洗って翌日の実験のために確保する必要がありました。このように、今日の恵まれた研究環境と比べますと驚くほど不備な条件でしたが、研究室には独特の活気がみなぎっていました。例えば、入り口に最も近い実験台では、田中亀代次先生(現大阪大学生命機能研究科教授)が色素性乾皮症の細胞を用いた実験を始められていて、早朝から終電まで休みなく実験をされておられましたし、奥の方の実験台では山泉克先生(元熊本大学教授、2006年逝去)が、赤血球ゴーストを用いた細胞内物質導入法の実験を、それこそ夜を徹して行われていました。また、1975年には、ジフテリア毒素の専門家である内田先生が助教授としてこられ、ジフテリア毒素という大きなツールが岡田研に加わることになりました。以後、岡田研では、HVJ、細胞融合、色素性乾皮症、赤血球ゴーストによる細胞内物質導入、ジフテリア毒素などをキーワードに、岡田先生が細胞工学という分野を創設されることとなった研究が次々と生まれていきました。今から考えてみますと、岡田研究室のその後の大きな展開の基礎はほとんどこの頃になされたものであるように思います。

 この当時、岡田先生はいつもセミナー室で黒板を使って、実験の目的や方法について説明をされました。岡田先生は非常に達筆で、すらすらと黒板に実験計画を書いて説明をしていただきましたが、今で言う決まったプロトコールというものはほとんど研究室にはありませんでした。また、岡田先生は、私たちにおおまかな研究テーマや方向性は示されましたが、実験を進めていく過程で細かい指示をされることはほとんどありませんでした。一方、私たちが出した実験結果については、それが予想と反する結果であっても、こちらの実験技術を疑うことや、結果を否定されることはほとんど無く、いつも大変肯定的に受け入れていただき、逆にこちらの方が心配になりました。しかし、そのおかげで私たちはいつものびのびと自由な雰囲気、自分のペースで考え、自分のペースで実験を進めることが出来て、本当に実験を楽しむことができました。

 実際、当時の岡田研ほど自由なところは多くなかったのではないかと思います。岡田先生は、とにかくこちらの意志をよく尊重していただける先生でした。岡田先生は非常に直感の鋭い先生でしたので、何かこちらにやましいことがあって、ごまかしや言い訳的な発言をするとすぐに見破られて叱られましたが、「自分としては是非この様にしたい」とお願いしたことは、実験のことであれ、私的なことであれ、ほとんど全て認めていただけました。これはよほどメンバーのことを信頼されているか、研究をやる上で(あるいは、人間として生きる上で)、本人の主体性が大切であると感じておられたかの、どちらかではないかと思います。また、岡田先生は研究室のメンバーに対して、その人の研究が進んでいるとかいないとかいうこととは無関係に、誰にでも非常に暖かく接しておられましたし、常にメンバーの生活を気にかけておられました。これは、この1月に亡くなられるまでずっとそうでした。

 このように岡田先生は人間的には非常に暖かい先生でしたが、研究や研究の進め方については非常に好き嫌いがはっきりしておられて、その意味では厳しい方でした。人まねをした研究を嫌がられ、一から自分で実験系を立ち上げて解析するというスタイルを高く評価されました。私達がセミナーで論文を紹介した時でも、岡田先生が好きなタイプの研究とそうでないものがあって、嫌いなものに対してはたとえそれがNatureやScienceに載った論文であっても厳しく批判をされました。一方、今でいえばインパクトファクターの低い雑誌に載った論文でも、内容に興味を持たれたときにはセミナーの後に「ありがとう、勉強になった」とか「面白かった」とお褒めの言葉をいただいたりしました。

 岡田先生は私たち門人にいくつもの有名な言葉を残されました。それら「岡田語録」からいくつか紹介したいと思います。

「論文は読むな!論文を読むとアホになる!」
これは大変有名な言葉で多くの門人が聞かされました。論文を読んでから実験をすると、論文の著者以上の発想ができなくなってしまい、結局大事な現象を見逃してしまう、ということであると思います。残念ながら浅はかな私の場合は、この言葉をあまりに忠実に受け取ってしまい、今のような状態になってしまいました。

「実験系を作るところが最も面白くて、大事なことなんや。」
岡田先生は、研究者はこれまで誰もやっていなかったような新しい実験系を自ら立ち上げ、それを使って研究を進めるのが研究の醍醐味であり、研究者はそうあるべきだと強く考えておられました。

「他人の土俵で仕事をするな!」
これはもっとわかりやすい表現ですが、やはりオリジナリティーの重要性をいわれたものです。

「自然界で起こっていることをみんな理解できるなんて考えるのは人間の思い上がりや。自然に対してどれだけ上手に問いかけができるか、上手な問いかけをしたときにだけ、自然というのは面白い答えを返してくれるんや。」
 説明の必要はないかと思いますが、私は岡田先生のこの言葉が大変好きです。この言葉には、岡田先生のサイエンスに対する考え方、ひいては人としてどう生きるかという哲学が凝縮されているように思います。

 岡田研の門下生は、この様な岡田先生の科学観、哲学観を聞いて、「どのように研究を進めるべきか?」あるいはもっと大きく「人間はどのように生きるべきか?」ということを学ばせていただきました。「時間はかかっても良いから、人まねはするな」という岡田哲学を聞かされて育った門下生にはどうも共通項があるようです。現在私が所属する大阪大学大学院生命機能研究科には、核輸送の米田悦啓先生、オートファジーの吉森保先生も所属しておられます。お二人とも岡田研です。生命機能研究科に入学希望の学生さんが研究室見学に来た際に、私の教室以外にどんな教室に興味を持っていますかと質問すると、「米田先生や吉森先生の教室を考えています」、という答えがかなりの確率で返ってきます。生命機能研究科には他に多くの有名な先生がおられるし、米田、吉森、目加田研の研究内容が近いわけでもないのにこの様な答えが返ってくるのは、明らかに志願者がこの3つの研究室に何らかの共通性を感じ取っているからと思われます。どこかに岡田イズムに育てられた者達独特の匂いがあるのかもしれません。残念ながら、この話には落ちがあって、その様に答えた学生さんで実際に私の研究室に来てくれた人は未だなく、全て米田研や吉森研に取られてしまっていますが。

 昨年11月、千里ライフサイエンス振興財団100回記念セミナーが開催され、岡田先生が講演されました。その日の夜、本当に久しぶりに岡田先生ご夫妻と食事を共にさせていただき、大変楽しい時間を過ごさせていただきました。私たち門人は、これまではお忙しい先生のおじゃまになってはとお誘いを控えておりましたが、千里ライフサイエンス振興財団の理事長も退かれたことでもあり、これからは時々この様な機会が持てればと考えていた矢先に、本当に突然に亡くなられて、あまりにも残念です。私たち岡田研の門下生はいつまでたっても、最後には岡田先生を親のように、庇護者のように頼ってきましたので、岡田先生が亡くなられたことは大きな精神的支柱を失ったと同時に、ついに独り立ちしないといけない日が来たのだなと、今まさに感じております。
(本追悼文は平成20年5月19日に行われました岡田善雄先生追悼シンポジウムに際して作成した原稿をもとにしたものです。)


(2008-09-01)

日本細胞生物学会賛助会員

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