一般社団法人
日本細胞生物学会Japan Society for Cell Biology

2016-10-25 大隅良典博士のノーベル賞受賞に寄せて:植物科学の一共同研究者として

三村徹郎 (神戸大学理学研究科)

大隅さん、この度は皆が待ちに待ったノーベル賞ご受賞おめでとうございます。

大隅さんは、私が東大理学部3年生の時に植物学教室の安楽先生の研究室に助手として着任されていますから、私にとっては本当の意味で「先生」です。ただ、卒業以降は、何故かずっと「大隅さん」としかお呼びしてこなかったように思うので、いつものように大隅さんと書かせて頂きます。
10月3日の夕刻、身に染み付いた習慣で、研究室内で少し嗜んでいると、我が家から「大隅さんおめでとう」というメールが入りました。すぐニュースの検索を始め、ろくに確認も取れないうちに、大隅さんのノーベル賞受賞を喜ぶメールが続々と届き、私もあちこちに送信しつつ、その日のお酒はそのまま研究室の仲間たちとの祝杯になりました。
受賞理由となった「オートファジー」の研究そのものについては私が語るようなことではありませんし、大隅さんの学生時代や折々のエピソードも基生研の毛利秀雄先生や東大の中野明彦先生が各ホームページに記されていますので、私はごく個人的なことがらを手がかりに大隅さんとのこれまでを辿ってみたいと思います。

そもそも、植物生理学に携わる私が、細胞生物学で酵母を研究されている大隅さんとどういう訳か長くお付き合い頂けるようになったのは、上にも書いたとおり東京大学理学部植物学教室での先生と学生という出会いがきっかけです。しかし、何よりも大きな要素として無視できないのは「お酒」でしょう。当時大隅さんが所属していた「安楽研」も、私が院生として所属していた「田澤研」も、どちらもお酒を呑む機会、量ともに尋常なものではなく、よくご一緒させて頂いていたのが始まりだったと思います。
私が留学先から戻ってきた1988年、大隅さんは助教授として本郷から駒場に移られ、その後研究室の閉鎖とともに私自身も東大を離れたことから、そのまま自然に疎遠になった可能性もありました。しかし、私自身の研究主題が植物細胞の液胞へとシフトするに従い、むしろそれ以前より研究面でのつながりは強くなっていきます。今でもその感覚がかなり強く残っているのですが、当時、私にとっての大隅さんは、酵母液胞の膜輸送の研究者という位置付けでした。大隅さんは、酵母液胞膜に存在し、その後多くの真核細胞に見いだされたV-ATPaseの発見者であり、その他にも多くの液胞膜輸送系を見いだされ、普通なら、これだけでも世界の大御所になる十分以上の業績でしょう。その頃、大隅さんに何故酵母の液胞の研究を始められたのかと伺ったことが記憶に残っています。大隅さんの答えは「留学先で酵母を材料とした研究を始めた時に、密度勾配遠心を掛けると、自分が必要とする核とは別に、いつも非常に美しい液胞の層が出来て、これを使っていつか実験をしてみたら良いのではと思っていたら、安楽先生が何をしても良いと言ってくれたので、酵母液胞を対象とした研究を始めた」ということでした。留学先で習った技術を用いて植物細胞から綺麗な液胞を取る実験を始めていた私は、「液胞の美しさ」という言葉に深く納得したことを覚えています。

その後、私は兵庫県立大学(当時の姫路工業大学)に勤務していましたが、数年後に今度は一橋大学の教養部に異動することになりました。まだ引っ越し荷物が広がったままの実験室に、大隅さんから「今度植物学会の専務理事を引き受けることになったので、庶務担当をしてもらえないか」という電話を頂きました。そもそも何故大隅さんが、細胞生物学会や、生化学会、分子生物学会ではなく植物学会で学会運営の要となる専務理事になられたのか? 実は、酵母などの菌類や細菌類の研究者の方々も植物学会で数多く発表をされていて、大隅さんも植物学会員のお一人だったのです。毛利先生が書かれているように、「細胞壁を持っている生物は植物」だったという訳です。大隅さんは、2007年に植物学会の「学術賞」を受賞されていますが、それもこのようなご縁があったからと思います。
当時一部では、「大隅さんに事務を任せるのは危険」という評判が立っていましたが、「まあ何とかなるだろう」と思っていたら、案に反して庶務に関するほとんど全てのことはきちんとして下さって、「おーっ、やる時はやるんだ」と感じいったことも今では楽しい思い出です。植物学会の仕事をご一緒させて頂いている間には、時々駒場に大隅研をお訪ねして、当時の野田さん、白濱さんや亀高さんなど、学生さん達と一緒に研究の話はそこそこに、お酒を呑んでいたように思います。大隅さんからはオートファジー現象発見の一つ一つをリアルタイムでうかがうという、とても恵まれた状況だったはずですが、現象の面白さを超えて「これは将来のノーベル賞だ」というところまで理解出来ていなかったのは、私の先見の明のなさということでしょうか。
しばらくして大隅さんが基生研に異動されることとなり、植物学会などでの関わり合いは減ったものの、逆に研究面でサポートして頂くことが増えていきました。私が当時所属していた一橋大学は、ご存知のように文系だけの大学です。研究室に学生さんがいる訳でもなく、自分の好きな研究を好きなように進めることができる大変恵まれた状況でしたが、一方で実験を行うのに必要なものが総合大学のように全て揃う訳ではありません。特にRIを使った実験をしたかったのですが、まったくそれが出来る状況ではありませんでした。そこで、大隅研の共同研究者にして頂いて、基生研でRI実験を進めさせて頂きました。私のRI実験のために、事務処理を全て取り仕切ってくれた鎌田さんを初めとして、当時の大隅研の皆さんには本当にお世話になりましたし、そのお陰でいくつか論文を出すことが出来ました。但し、それらはオートファジーとは何の関係もない、植物細胞のリン酸輸送の論文で、それが大隅さんとの共著にもなっています。RI室での実験後、あるいは途中で大隅研に入り浸り、そこで吉森さん、水島さん達を初め、基生研で大隅さんの下に集まった多くの俊英の皆さんとも接点を持つことができ、大変楽しく有意義な時間を過ごすことができました。

今になって振り返ると、自分がまだ若手の研究者として何がなんだか判らない時期で、かつ自分だけで考えた研究を進めている時に、毛利先生が言われる「となりのオジサン」ならぬ、私にとっての「となりのオニイサン」が、分野も違う自分の研究を見てくれているという安心感と、自分はそれほど間違ったことはしていないだろうという微かな自信ほど、当時の研究を支えてくれていたものはなかったように思います。指導教員ではない、少し違う分野の先達が自分の研究をそれなりに見てくれているのだと思えることの不思議な安心感は、次に自分の研究を先に進めるための、どれほどの支えになったかは計り知れません。大隅さんには、これまでそのような話を一度もしたことはありませんが、私の人生の支えになった最も大事な要因の一つだったと思います。

大隅さんが基生研に移られてしばらくの頃、「今度新しい科研費の公募で、特定領域というのが始まるから、それに「液胞」でグループを作ろう」と言って頂きました。既に科研費総合研究で大隅さんが「液胞」のグループを立ち上げられていて、事前の準備は十分に出来ていたと思いますが、新しい研究グループを立ち上げるということを身近に手伝わせて頂き、自分の研究分野に対する責任を持つということも考える機会を頂きました。総合研究でも新しい特定領域でも、「液胞」というキーワードの下、酵母や植物細胞を扱う同世代の方々が日本中からたくさん集まり、そこで知り合った方達との議論は今でも大きな広がりを持って、私自身を助けてくれています。
無事立ち上がった「液胞」の特定領域で当時は若手だった方々が、今ではどんどん新しい科学を広げて行ってくれています。その方達と話をして大隅特定が自分の始まりだと言われるのは、私としても嬉しい限りです。
その後は、大隅さんが素晴らしい研究仲間と、特別推進研究を初めとした研究費にも支えられ、ノーベル賞に輝いた燦然たる研究を広げられていることは、皆さんが良くご存知の通りです。

最後になりますが、もう一度繰り返したいのは、自分とは少し分野の違う、少し年上の尊敬出来る先輩が、自分の研究をいつも見てくれているという安心感が、大きな心の支えになるということです。このことを大隅さんとのこれまでを振り返って身をもって実感しています。

研究と切り離して語ることが不可能なほど大事なお酒については、大隅さんに連れられて東京と東広島の醸造研でも呑ませて頂きましたし、つい数年前には、とある研究会に集まった皆と一緒に酒祭りの鶴岡で、酒瓶を持ったまま雪の中をフラフラしていたことを覚えています。そこでは、数百人いる会場の抽選会で、大隅さんは最後まで残って賞品のお酒を勝ち取って来られました。強運の持ち主なのだと強く印象に残っています(写真は、その時のものです)。

もっと個人的なことがらも多々ありますが、色々書き始めたら切りがないので、それはおいておき、大隅さんには、これからも発言権が十分に強くなったリーダーとして、日本人の多くが好きなはずの基礎科学の広告塔になって頂くことを心よりお願いしたいと思います。
いつまでもお元気で、研究は当然ですが、また一緒に呑んで下さい。

平成28年10月20日



(2016-10-25)

日本細胞生物学会賛助会員

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