矢原 一郎公益財団法人 東京都医学総合研究所 特別客員研究員
大隅良典さんと私は共に大学院では、今堀和友先生(東大教養学部時代、本年5月に95歳で亡くなられた)が指導教官だった。私が7歳年長なので、研究室のミーティングなどで同席したことはなかった。しかし、私が東大医科研で助手生活を過ごした後、ロックフェラー大学のジェラルド・エーデルマン教授(先生も一昨年5月に亡くなられた)の研究室に移って4年ほどしたとき、大学院を出たものの適当なポストにつけなかった大隅さんが、今堀先生の紹介で、エーデルマン研にやってきた。このときから、ニューヨークで、大隅さんと私の家族共々の愉快な付き合いが始まった。
1.ニューヨークでの麻雀と海釣り
けっして研究をさぼっていたわけではないが、よく遊んだ。週末に徹夜におよぶ家族麻雀がもっとも手ごろだった(写真1)。写真では、右側に大隅さん、背中を見せているのが大隅夫人(萬里子さん)、正面が私の妻であるが、4、5家族が参加していた。大隅さんは、講釈で打つ麻雀で、特に奥さまの萬里子さんが打ち、大隅さんが手明きのときは、奥さまの後ろに付き、あれこれ口出ししていた。しかし、萬里子さんの手を、「それは筋のいい打ちかただ」などとよくほめるので、夫婦げんかにはならなかったようだ。なお、親が麻雀を打つ間、子供たちはベッドルームに寝させておき、明け方にかついでそれぞれのアパートに戻った(写真はまだ宵の口で、左端に子供が遊んでいるが、おそらく大隅さんの長男と思われる)。
もう一つの遊びは、海釣りだった。乗合の釣り船か友人が所有していたモーターボートで海に出た(写真2)。写真はLong Islandの港から出た乗合船でのヒラメ釣りで、同じ型のヒラメを次々に釣り上げた。右側が大隅さん、左は当時三菱銀行のNY支店勤務だった私の従弟である。他にも、striped bass(夏)、blue fish(夏)、weakfish(春)、cod(冬)などをよく釣りに行った。時には、小さいモーターボートで海に出て、少し海が荒れたりすると、宿で待っている萬里子さんは、「あの人は泳げないので、心配だ」と言っていたそうだが、実際は超安全な遊びだった。
この頃、大隅さんは、マウス受精卵の試験管内培養という当時の超難テーマに取り組んでいて、昼夜実験室に籠って仕事をしていたのだが、わずかな合間を作って友人たちと遊んだり、また酒を飲んだりしていた。
研究者と歌人という二つの顔をもつ永田和宏さんに、「サイエンス以外はなべて遠ざけて来しと聞きしかばすなわちひるむ」、また「無駄なことはいっさいしないというこの同僚も好きになれない」、という歌がある。これらは、永田さんの、サイエンス一筋の人たちに対するコンプレックスから生まれたものだと、ご本人が書いている。大隅さんのノーベル賞受賞決定を受けて、世間の一部には、大隅さんはサイエンス一筋の生活を送ってきたとするステレオタイプな見方があるが、永田さんに毛嫌いされるような鼻持ちならない禁欲的な科学者ではけっしてない。次に、最近の話題に移ろう。
2.大磯の「勝手でいい加減塾」
5年ほど前から、年に二度ほど、大磯の大隅邸に10数人が集まって、酒を飲みながら歓談する会がある。このサロン的な会は“勝手でいい加減塾”と称し、大隅良典さんが塾長を務め、萬里子さんが管理人である。塾のメンバーは、大隅さんの東大教養基礎科学科時代の同級生およびその夫人の数組がコアで、加えて私たち夫婦のような外様も数名いる。塾には原則的に夫婦で参加し、各メンバーが2品程度の酒肴、それも多くの場合、夫が手作りしたものを持ち寄ることになっている。とはいえ、ご飯ものや季節の煮ものなどは、萬里子さんの手作り品が主役(料理の先生であったお母様直伝のプロレベルの出来栄え)となる。大隅さんはいつも家の外で七輪に火をおこし、干物などを焼いているが、その焼き加減も年期が入っている。大隅邸は古民家の建材を使った造りになっていて、玄関を入って右手の家事室とその先の台所の間に土間風の食事場所がとってあり、そこが塾の集会場所となる。
塾の会では、最初に、塾外部から招いた講師(大隅夫妻と親しい)に、それぞれ専門のテーマについて話題を提供していただき、酒を飲み食事をしながらの歓談となる。例えば、大隅さんのお兄様の大隅和雄さん(東京女子大名誉教授)に日本中世思想史について、また、遠藤斗志也さん(当時名大)にはアフリカ音楽について、普通ではうかがえない面白い話をしていただいた。また、昨年5月には、塾の会合が10回目となることを記念して、永田和宏さんに「言葉の隙間を埋めるもの」というタイトルで、短歌について内容の濃い話をしていただいた(写真3)。
この塾の会での、大隅さんのホストぶりはなかなかのものである。まず、講師を選ぶための人脈が豊かで、講師によって提供される話題はいつも塾生たちの好奇心を満足させている。また、会の進行に気を使っていても、いわゆる気配りの世話人という風情はまったく感じさせないで、自らも会の論議の中に入り込んでいる。酒や食料は次々に持参した塾生らや萬里子さんによって提供されるが、使ってしまい空になった食器がいつの間にか片付いているのは、大隅さんの作業のおかげである。本人がかなり酒を飲んでいても、いつも最後にはコーヒー豆を挽いてドリップコーヒーをいれる。このように、まことにintimateな雰囲気なので、会は午後4時くらいに始まるが、9時前に終わったためしがない。ときには、大磯駅の終電に乗り損ねそうになったこともある。
こうした人付き合いのいい、まったくの自然体の生き方は、大隅さんの若いころに身に付いたもので、いまも少しも変わっていない。
3.基礎科学の大切さ
ノーベル賞受賞に決定した大隅さんが、最初に強調したのは、現在のわが国での基礎科学の危機的状況についてである。このところ毎年のようにわが国にはノーベル賞受賞者が輩出しているが、これは何十年も前に基礎科学に投資した成果が実ったもので、逆に、最近の基礎科学軽視の趨勢が続けば、わが国の科学は破綻を迎えかねない、とする主旨である。大隅さんの受賞決定からわずか3日後、10月6日の朝日川柳欄に「そのうちに昔話のノーベル賞」という句が選ばれていたが、一般の方がことの本質をじつに見事にとらえていることに感心した。
さて、基礎科学の重要性はいつの時代にも叫ばれてきた。しかし、それが深刻化したのは、次の事が大きな原因となっている、と私は考えている。
いつの頃からか、「大学の経営」という、アカデミズムにとってはまことに不可解なことが、大学人によって、普通に語られるようになったことである。そして、東大や京大においても、学長選挙で候補者は「大学の経営方針」を声高に訴えるようになった。これは、国立大学への運営交付金を年に1%(5億から10数億円)減らすという政府(財務省)の方針に対処するために、自己で減額される部分を稼ごうという意図の具体化なのだろう。いきおい、各大学は産学連携研究推進や病院経営合理化、寄付金集めなどに精を出さなくてはならない。いわゆる大学にとっての副業が、大学の存立基盤であるアカデミズム(注:もう一つ教育がある)を抑圧しているのである。この状況を変革するのは難事であるが、基礎科学を重視するのであれば、心ある研究者は躊躇することなく取り組むべき課題である。
これから、ノーベル賞受賞者としての大隅さんの発言には、特に世間から注目が集まると思われるが、「基礎研究の危機」を叫ぶと同時に、より具体的な内容をともなった発言(若手研究者を支援する組織をつくる、などはその一つである)を期待したい。もちろん、大隅さんには、のんびりと庭で草むしりをして過ごすという選択肢があることも、念のため付記しておきたい。