吉田 賢右京都産業大学
大隅さんのノーベル賞受賞は嬉しい。50年来の大学院生時代からの友人として嬉しい。酵母を使った基礎的な研究が評価されたのが喜ばしい。小さな研究室で酵母を光学顕微鏡でのぞいて液胞をながめ、そこから壮大な発見に進んでゆく科学のロマンが広く知れわたり、それが知的世界の開拓者を激励する社会的な雰囲気の成長にいささかでも寄することが嬉しい。そして、受賞後の会見などで大隅さんが、基礎科学の意義を訴えて最近の出口志向の研究偏重に警鐘を鳴らす発言を繰り返しているのも、たいへんありがたい。
大隅さんの発言によって、マスコミの社説やテレビの解説なども、基礎科学の大切さを少しづつ述べるようになった。これが世論として定着することをおそれたのか、「何の役に立つかわからない研究に ふんだんに研究費を与えるほど、わが国は豊かではない」と発言をする人が現れた。政府の科学技術を担当する大臣である。「何の役に立たない研究」すなわち基礎科学を切って捨てるような、基礎科学に対する大臣の反感すら感じる表現である。この場合、大臣の頭の中では、「役に立つ」とは、最近の政府や行政文書に頻出する言葉「イノベーション」と同義であり、これは「企業化」や経済の活性化に資する、というのとほとんど同義だろう。
大隅さんは、「役に立つ、という言葉が社会をダメにしている」とインタビューで述べた。私はこれを「(科学の)社会をダメにしている」と(科学の)を補ってまずは受けとめた。短絡的な「役に立つ」研究が科学研究の社会をゆがめている、という意味である。これに対抗して基礎科学を擁護する主張として、基礎科学もいづれは応用に結びつくのだ、というのがある。マックスウェルは、財務大臣から「この電気というのは何の役に立つのかね」と問われて「閣下、いづれ電気からは税金をとることができます」と答えたという。まったくの学者の遊びと思われた整数論がいまや暗号技術の中核である。ほとんど趣味みたいなおわんくらげの蛍光物質の研究はノーベル賞を生み出した。この主張には、いくらでも例をあげることができるし、大臣が理解できる反論としてはこれで十分かもしれない。
しかし、(科学の)を補わずに、大隅さんの言ったとおりの表現をもっと深く問うてみる。社会で、「役立つ」ものは存在意義が有り、「役立たない」ものは存在意義がないのだろうか。世界を「役立つ」ものと「役立たない」ものに分割してみよう。愛情、共感、音楽、芸術、スポーツ、文学、などなど、さまざまな人間的文化的な喜びや楽しさはみんな「役立たない」ものに属するのではないか。私たちは「役立たない」ことの海の中で人生の喜怒哀楽を経験しつつあるのではないか。何かに役立つわけではない、それ自体が価値を持つ、そういう価値をみつけながら生きているのではないか。そして、実は「役立つ」というのは「役立たない」ことに役立つからこそ意味があるのではないか。他に奉仕するわけではなくそれ自体価値を持つ「役立たない」ものが、「役立つ」ものに優先する。今の社会では、そして特に最近では、これが逆転している。最近の養護施設の大量殺人などはその極端な悲劇的な例だろう。
そして、「役立たないこと」の中には「理解すること」も含まれる。自分を、社会を、自然を、世界を理解したい、これはほとんど欲望である。あることが理解できればうれしい、ということである。この欲望は、「役立たない」し、そもそも何かに役立てようと思う以前に存在する。世界を理解したいというこの衝動は、世界を支配しようという衝動に優先するのではないか。問いを発し理解すること、つまり知性と科学であるが、これは人類史の中で形成されてきた文化的な人間性の本質だと思われる。3000年前ですら、それが空想的な、あるいは宗教的な装いをとったとしても、ヒトは宇宙の構造を考え、その起源を理解しようとした。
当たり前のことだが、理解したからといって、それに応じて支配できるわけではない。今や私たちは宇宙の誕生をインフレーションとビッグバンで理解し膨張する宇宙の構造を知っているが、それに干渉し支配することはできない。台風の発生や成長は理解できるが、これを支配できると思う人はいないだろう。理解(科学)と支配(応用、技術)とは、関係はもちろんあるが、別物である。科学は技術の下僕ではないし、技術以前に存在するものである。しかし、特にバイオ研究などの分野で、研究は「役立つ」ものであり、役立たない研究というものは意味がない、という風潮が強くなっている。研究者は、基礎研究の成果であっても、なんとか病の治療に役立つ可能性がある、と表明することを強いられる。
大隅さんの言いたかったのは、「役立つ」という言葉がこの社会も科学もむしばんでいる、ということだったのではないか。