野田 亮理研・筑波セ
米国の医学者で,科学読み物の著者として有名なルイス・トーマスが,ある本に寄せた緒言の中でこう書いている。
「この本を読み,また,私の身辺を見回してみると,どうも生物学研究から純粋なる喜びというものが失われつつあるのではないかという気がしてきます。」そして,その原因として,競争のエスカレート.職の不足,下級研究者の賃金の低さ,研究の大型化や機器の高性能化に伴う研究室体制のピラミッド化およびテーマの断片化等を挙げ,最後に次のように結んでいる。「科学の進歩に欠かせない『純粋なる雑談』とでもいうべきものが,危機に瀕しています。…例えば,昨日自分の研究室で得られた前代未聞のデータを世界に向かって‥もちろん,ジャーナリズムの世界ではなく科学者の世界のことですが‥語りかける,という経験は科学における醍醐味の一つです。私は,科学者だけが持つ,このような高度な特権を脅かすような事態が起こらぬようにと願うものです。」近年の,科学ジャーナリズムの過熱現象は,日本の社会にどんな波紋を生じさせているだろうか?まず第一に,科学に対する一般社会の関心を高め,“技術立国”の雰囲気作りに貢献しているという点が挙げられる。これは,研究費や研究志望者の充実,研究に対する一般社会の承認と激励等につながり,研究者の側から見て,一応メリットとして数える事ができるだろう。一方、これとは裏腹に、研究者個人あるいは研究者集団の独立性が脅かされるという面が存在する事も見逃せない。官庁や一般社会から細部にわたるまで常に監視されているという圧迫感は,創造性にとって重要と思われる。研究者の「精神の自由さ」を,時として損なう事になるかもしれない。また,現在,ジャーナリズムの中で一般に受け取られている「学会発表イコール社会への公表」という考え方は,学会の在り方に深刻な影響を及ぼしている。特に生物学のような複雑な対象を扱う研究分野では,多くの研究グループが,たとえ未確認のデータであろうとも持ち寄って討論し、全体としての傾向なりindicationなりを読み取り,次の作業仮説を立てるという事に大きな意味があるように思う。また,私個人は学会発表と論文投稿との間に,実験結果やその解釈における間違いあるいは不確実要素の淘汰が起こるべきだと考えている。研究者の集まりにおける,このような弛まざる知識の合成や咀嚼を可能にするための必要条件(十分条件ではない)として,その集まりが一般社会から独立した存在である事が要求されるだろう。例えば,コールド・スプリング・ハーバーで行なわれる多くのミーティングでは、抄録集に「ここでの発表内容は私信として扱われるべきである」旨,明記してあり,スライドやポスターの写真撮影等はしない事が不文律になっている。これと対照的な例として,先日,日本のある学会で,講演をテープに録音して売り出すという事が行なわれ,私はその意義について理解に苦しんだ。より具体的な問題としては新聞等への公表が,論文投稿に先立って行なわれた場合,受理拒絶を原則としている雑誌も増えており,この場合には受け身なインタビューであろうとも,結果として研究者が損害を蒙る可能性が出てくる。
ジャーナリズムの使命は,社会の眼となり耳となり口となる事だろう。一方,自然科学者の使命は,自然現象の理解を通して人類の知識を充実させる事にあると思う。ジャーナリズムが科学報道において,百害有って一利なき噂話に明け暮れて「ピーターと狼」みたいにならないようにするためには、慎重にトピックスを選び,それをmodestな態度で報道する事が大切であろう。記者には,当事者を含めてなるべく多くの専門家の意見を聞くことが,また,デスクには,記者の書いたナマの記事を尊重し,あまり突飛な見出しをつけたり誤解を招くような改変を避けるようにする事が期待される。
一方,研究者の側に期待されるのは,研究結果の公表に際しては,一般社会の利益という事を第一に考慮する事だと思う(この原則は勿論記者にもあてはまるが)。人々を惑わしたり,自分を含めた一部の人にのみ利益をもたらす事が明白な研究発表は,排斥されるべきであろう。また,怪情報に踊らされたり,世間的名声を求めて,データの粗製乱造に陥るようでは困る。
しかしこれらの事は,言うは易く行なうは難い。コソピューター通信等の導入で,情報の流速がどんどん速まっている現代にあって,時間のかかる生物学分野での本質的発見を志す者は,世に一定のルールが行なわれるようになるまでの当面の間,情報管理の面である程度の自衛手段を講じておく必要が有るのかもしれない。