中野 明彦東大・理
たとえば科研費の申請書を書くときに,現在の専門分野を記入する欄がある。はじめのうちは,科研費の分類細目からどれかを選ばなくてはならないのだろうと思って無理にこじつけていたが,実は自由に書いてもよいのだということを知って,いろいろとその時々の気分で専門を変えて楽しんだりしていた。いつごろからだろう,ここに分子細胞生物学と書くことに決めたのは・・・。
分子細胞生物学という言葉は実はそれほど新しいものではない。アメリカの微生物学会がMolecular and Cellular Biology という雑誌を刊行し始めたのは1981年のことであるし,Alberts et a1.のMolecular Biology of the Cell や Darnell et al.のMo1ecular Cell Biology といった教科書も評判になってから久しい。しかし これが学問分野としての市民権を得ているかというと別問題である。単に分子生物学と細胞生物学を足しただけと感じる向きには,あまりいい名前とはいえないかもしれない。受けるイメージがずいぶん異なるからだろう。一般的にいって、分子生物学者にはたとえば形態をじっと眺めていることにアレルギーがあるみたいだし、細胞生物学者には,遺伝子のクローニング,シークエンシングという方法論に拒絶反応を示す人が少なくない。私はどちらも大好きのつもりであるが。
個人的には,分子細胞生物学をMolecular and Cellular Biology ではなく,Molecular Cell Biologyと考えたいと思っている。つまり、Cell Biology にMolecular という形容詞がついたものである。そもそも,生命現象の多くは細胞レベルでの活性に基盤をおいているわけであるし,さらにその細胞同士の相互作用を取り扱うのも細胞生物学であるとすれば,分子生物学を含めたさまざまな生命科学の扱う現象の多くは,細胞生物学に含まれていいはずである。また,細胞生物学の諸問題を取り扱うのに,分子レベルからの観点を抜きにすることももうほとんどあり得ない。こう考えてみると,分子細胞生物学というのは,実はすごく包括的で先鋭的な学問なのである。
平成3年度から,時限つきかつ一般Cのみという制限つきではあるが,科研費の分科に「分子細胞生物学」が採用されたのは,もう皆さんご存じの通りである。これは,高橋研連委員長,田代会長を始めとする諸先生方の努力の賜物であり,少しでも多くの研究費を切望する苦手研究者たちにとって大きな朗報であった。しかし,これが分子細胞生物学という名前となったことには,いろいろな意見があるとも聞く。細胞生物学会と分子生物学会の両方の働きかけが統合されてできたものというのが真実であろうが,折衷であったことにあまりこだわらなくてもいいのではないだろうか。時限や研究費枠の制限はぜひとも撤廃をめざすにしても,分子細胞生物学という分科は,せっかくできたのならこれから発展する大きな学際分野として盛り立てていくことを考えてもいいのではないだろうか。
3,4年前に日本の細胞生物学の将来を考えるパネルディスカッションなるものがあって,なかなか楽しく聞かせてもらったのだが,そこで,分子生物学会ともっと協調してやれないか,たとえば合同年会などを考えてはどうかという意見があったような気がする。実際にはいろいろ難しい問題があって,そうすんなりとはいかないのは承知しているが,この新しい科研費枠ができたことを契機に,両学会の接点が広がれば,日本のバイオサイエンス全体の括性を高めることにもつながるのではないだろうか。少なくとも,遺伝子と顕微鏡のどちらにも違和感をもたない研究者が増えていくのは悪いことではない。