竹居 光太郎科学技術振興事業団御子柴プロジェクト
今年の元旦に家族で京都山科にある醍醐寺へ初詣に出かけました。その時に寺のガイドの人に聞いた話なのですが,弘法大師の法孫聖宝尊師が醍醐山の山頂付近に湧き出る水を感得して開創したのが醍醐寺の始まりだそうです。その湧水を醍醐水と言い,聖宝尊師は生きるものが最も欲する最上の味はこれにあると感得し,この水の味を醍醐味と呼ぶようになったそうです。広辞苑によると,幾つかの正式な意味があって,醍醐のような最上の教えのこと,醍醐(乳製品の最も美味たるもの)のような美味をほめていうこと,深い味わい,転じて本当のおもしろさやすばらしさのこととあります。
さて,漠然と毎日が面白く感ずる研究生活の中,研究の本当の面白さ,即ち,『研究の醍醐味』とはいったいどのようなことなのでしょうか。「だから研究をやめられない」,「興奮して夜も眠れない」などという経験をお持ちの方も多くおられることかと思います。おそらく,そのような時には多くの方が『研究の醍醐味』たるものを味わられたことと思います。無論,その味わい方は人によって千差万別でしょう。研究の意義は発見にあるのだとすれば,『研究の醍醐味』=『発見の醍醐味』となります。では,どんな時に醍醐味を味わうことができるのでしょうか。先ずは,「まさかとは思うが,これが本当だったら面白い」というようなことを示す実験結果が見事に出て,思わず一人歓声をあげた時。この時は誰しも「やっぱりそうなのか」という『発見の醍醐味』を直接的に味わうことでしょう。反対に,期待に反した結果が出て,「エーなんだ,違うのか」とがっかりした時はどうでしょうか。この「違うのか」は,少し経つと「だったらいったい何なのか」になります。発見の醍醐味を味わうためには必ず「いったい何なのか」から出発しなければなりませんが,醍醐味ということを深い味わいや本当のおもしろさに限定すると,発見の瞬間よりも,私はむしろ,「いったい何なのか」というこの試行錯誤の過程に『研究の醍醐味』を強く感じます。(もちろん、発見の瞬間の醍醐味はいくらあっても困りません)。そう簡単には解けない大命題に取り組んでいるのだという自覚をもってあれこれと考えを巡らせているのは実に楽しい時間ですし,大変面白く感じます。この過程の中で,研究の論理性がすっきりとまとまってきたり,研究展開が当初考えもしなかった方向に進んで行ったり,偶発的に面白いものに出会ったりすることなどが多々あります。「転んでもただでは起きない」が実に面白いと思うのです。このような時にこそ,誰も考えもしないような独自の世界に入り込むチャンスがあるのだと私は思います〔迷宮入りの間違った世界であったとしても)。「独創性をもつためには」などという議論が多くなされていますが,天才でない限り,「いったい何なのか」を問い続ける混沌とした状況の中,「転んでもただでは起きない」の精神が『独創性』を芽生えさせるのではないでしょうか。「結果よりプロセス」と言われることがよくあります。プロセスが楽しく,本当に面白いのは研究においてもまた然りだと私は思います。
しかし,実際のところ,negative data というのは実にいやなものです。しかも,「これは違う」ということを正確に証明するのは相当に大変な仕事になります。もしも,negative data に意義があるような知見を集めるJournal or Negative Data (JND)という雑誌があったら,かなりグレードの高い雑誌になるのではないでしょうか。JNDがCellやNatureと同クラスの雑誌として本当に存在していたら,世界の科学研究の動向は鋭い垂直思考と大きな水平思考が共存するよりバランスのとれたものになるかも知れません。それはともかくとしても,日常的にはJNDに発表するほどnegative dataに執着する時間はありません。しかし,ゴミデータであっても,自分が取り組む命題の大きさや奥深さを知る機会であったり,「転んでもただでは起きない」精神に燃える格好の材料になったりします。JNDがなくとも,ゴミはそんなにつまらないものではないでしょうし,ゴミの中にも大発見があるかも知れません。それが大きなゴミであればあるほど,独創性をもつにも,真理に近づくにも,ゴミもかなり役に立つ面白いものに見えます。即ち,『発見の醍醐味』は『大ゴミの醍醐味』なくしてありえないように思えるのです。案外,懐石料理ではなく,ただの湧き水のようなものを醍醐味と感得した聖宝尊師のような発見がすぐ近くに隠れているのかも知れません。とは言うものの,醍醐寺での初詣では「今年は大ゴミ以外でもちゃんと研究の醍醐味を味わえますように」と,静かにお祈りしました。