新免 輝男姫路工業大学
最近,自宅の引越をした。といっても,職場が変わったわけではない。運搬車の都合で,何もない家で1時間以上も一人で待機することになった。あいにくの雨天で散歩もできず,ぼんやりとしていると,ふと引越貧乏という言葉が浮かんできた。なんとなく思いをめぐらせていると,文章になりそうなので,巻頭言のタイトルはこれに決めることにした。かなりいい加減な決め方であるが,自分がやってきたサイエンス自体もこんなものなので,まあいいだろうということで納得することにした。
高校を卒業してからこれが13回目の引越である。少ない方ではないと思う。その間に,学生または教員として5つの大学を経験した(海外留学は除く)。その都度,多くの方と接することができたが,今になってみると,それが自分の研究における発想に非常に大きい影響を与えていることに気が付く。引越三両というように,引越すたびに,その費用を始めとして多大の引越貧乏をしている。しかしながら,サイエンスに関して得られたものを考えると損はしていないのかもしれない。もちろん,その価値に関しては質が全く異なるが。
職場を変わると云えば,最近,大学教員の任期制が取り沙汰されている。理念としては賛成であるが,問題も多いような気がする。任期制は大学における研究の活性化を促すということがその利点として挙げられている。任期制が理念どおりに働けば,確かに大学の研究を活性化するような気がする。研究の活性化にとって最も重要なのは人材の確保であるが,では,任期制によって大学は本当に良い人材を得られるであろうか。それは研究者にとって大学がいかに魅力あるものであるかということにかかっている。バブルが崩壊する以前に,大学の研究環境と民間の研究環境の大きい差が取り沙汰され,大学に残ることが期待されていた大学院生が企業を選ぶようなことが時々みられた。また,生活という点から考えると,任期制は不安材料となる。それでも大学を選ばせるほどの魅力を大学が身につけなければ,優秀な人材の確保どころか,頭脳の流出というような状況になってしまう可能性がある。さらに,任期制が導入されると,大学を去ることになる人もでてくると思われるが,現在の日本にその人材を受け入れる社会体制が整っているのであろうか。
以前は,引越をしてもそれほど大変とは思わなかったが,体力の減退と家具等の増加によって,次第に苦しくなってきた。特に今回は,引越はこれで最後にしたいものだと,家内とうなずきあってしまった。自分の職場の都合で,勝手に引越を決めてきたが,家族にとっては迷惑なことであったであろう。東京から関西に来た時は子供達も何かと悩むことがあったようである。私が突然,引越を宣言しても,一応ついてきてくれた家族には感謝すべきであろう。しかし,家庭内における今後の力関係への影響を考えると,このことは家族には伝えない方が賢明であろう。
自らは引越を苦痛に感じる年代になってきたが、逆に子供達がその選択をする年頃に近づきつつある。度重なる引越貧乏を経験させられた子供達はどのような選択をするのであろうか。楽しみである。