五島 剛太名古屋大学 菅島臨海実験所
名古屋の研究室を閉じた。動物培養細胞を使った研究は終了。定年まで15年を残しながらである。11人の博士が巣立った研究室を解散するのは残念だったが、決心した。この数年兼務していた同じ名大理学部の臨海実験所に完全移籍した。場所は三重県鳥羽市の菅島。実験所内の寄宿舎で4人の学生と同じ釜の飯を食べて生活している。人口500人弱の島だが実験所の周りに人はいない。隣家までは山道を徒歩50分。買い物、宅配は実験所の船で本土に行くしかない。日没後は孤立。暴風なら停電。なぜ今こんな僻地に移ることにしたのか?その理由をざっくばらんに書き記すことにしたい。
まず、海の生物を使った研究に魅力を感じた。数年前まで海の生物は名前すらほとんど知らなかった。それが実験所の教授選考人事委員長拝命がきっかけで菅島に通うようになり、ハマってしまった。こんな生物がいるのかと。ハネモ、ミル、黒色酵母。聞いたことがなかったが、細胞生物学の教科書の常識を覆すような増殖様式をとる。人事委員長自身が教授後任として手を挙げてしまった。
新テーマで何かを達成するには10年はかかるだろう、移籍は今しかない、と思った。独立2年目に開始した植物研究では、数年と思っていた課題に対してそれなりの答えを出すのに15年かかってしまった。
都会育ちだが、田舎暮らしもしてみたかった。畑で採ったスイカを食べて皮はそのまま投げ捨てる、という小学生の頃の数少ない田舎体験は鮮烈だった。菅島臨海は予想以上の田舎っぷりだが、今のところ楽しんでいる。果物の皮も土に返している(ゴミ収集車は来ない)。サンフランシスコをポスドク先に、名古屋を赴任地に選んだ時もそうだったが、「そこに住みたいか」というのは、アカデミアの就職活動の重要な要素だと思う。大学名が全てではない。
名古屋の研究室の人気がイマイチだった。閉鎖時の在籍学生はゼロ。人徳のなさもあろうが、一年目から就活なるものをする前提の修士学生は受け入れないと宣言し研究第一を掲げたのも一因だと思う。学科全体を見ても、素晴らしい研究を展開している研究室がむしろ不人気な年も多く、変な20年だった。産業界のエゴに、大学は抵抗する術はなかったのだろうか。菅島でも学生から人気が出るとは思っていない。誰もいなくなったら、独りで実験を続ける。こうなることもあろうかと9年前にサバティカル休暇をもらい実験技術のアップデートをしておいたのは良かった。
年齢や立場が上がり、納得し難い大学業務が回ってくるようになった。おそらく回してこられる先生も納得していないのに、貴重な時間を割いてやる仕事が辛かった。名大だけではなく、どこも同じだと思う。別の大学や研究所に移って再び新人になってこれらの業務から逃げられないだろうかと考え始めていた。すると、大学を変わらなくても、地理的隔離によりいくつかの苦役から解放されるレアな職場に出会ったという次第である。信じてもらえないかもしれないが、今は朝から夜までベンチワークの日も多く、相当研究に専念できている。
とはいえ、離島での新しい研究はなかなか大変である。細胞生物学的に面白い生物種は目の前の海で簡単に採集できるが、飼育・培養法や形質転換法は自力で開発しないといけない。やりがいがあるが、実験失敗が続きもう無理かなと諦める気持ちになることもある。論文を出し続けること、なんだか楽しそうに見えると皆さんに言ってもらえること、が目標である。